スウェット女子の誘惑

自分の周囲の人や物事を都合よくカテゴライズして、キャラクターに落としていくのは、なにもオタク的な傾向でもなんでもなく、マーケティングの引力が働くところには、どこでも発生する。『平成男子図鑑』のような本が、当の男子たちからぶーぶー言われつつもそこそこ好評だったりするのは、かつてのマーケ言説が似たような形で女子をカテゴライズすることで成り立っていた図式の反転に過ぎないからだと思う。

女子はカネを生まないけど、カネを持っている男子が集まりそうな女子をカテゴライズして、ディスコなりカフェバーなりに囲い込めば、女子目当ての男子が勝手にカネを落としてくれる。そういう構図があってのマーケティングは、男子からも女子からも平等にカネが奪われていく現代では通用しない。それならば直接に、自分のためにカネを使う男女を炙り出そうという話が出てくるのは不自然なことじゃない。でも、「彼女のため」というタテマエが取り払われて、自分が企業に奉仕させられていることに気づいた男子たちにとって、それは迷惑以外の何者でもないんだろう。

その気持ちは僕も分からないわけじゃないんだけど、じゃあそういう市場の引力の外側ってどうなっているんだろう、とも思う。最近気になっているのは、それこそマーケ的な言い方をするなら「スウェット女子」だ。いるじゃない、グレーのスウェットとダウンジャケットで、チャリ漕いでて。彼氏と一緒の時も、なぜか彼氏がチャリの後ろで。特に引っ越してからは、東京のように交通網がひしめいていないからか、男子を乗せてチャリを漕ぐスウェット女子たちをよく見かけるようになった。まあ、僕が彼女たちに惹かれたのは、この寒い中、彼氏を乗っけてそれでも楽しそうにしているところだったんだけど。

物語を作ろう・消費しようという人たちが、自分の文化圏の外側にいる人たちを、うまく描けていない例が目に付くなあと思う。昔がどうだったのかは分からない。80年代前半までは世代内のヨコの透明性は確保されていたんだって人もいるけど、それだってそもそも世代内のごく一部の現象だったからであって、その後の「ガイドブック」的なものの氾濫や、研究者まで参加したカテゴライズへの欲望は、急速に失われていく透明性への不安に惹起されたものではなかったのか。

かくて透明性の記憶すらなくなった現在では、文章を書こうという人間、物語に惹かれる人間がそもそもひとつのマーケットだし、そのマーケットのリアリティが、イメージの世界の人間像を左右する。純粋にケンカだけに明け暮れる不良はもうメディアの中にしかおらず、その背後にある格差や悩みまでを描こうとすれば、主人公は不良上がりの教師になるほかない。イマを楽しく生きてそうなギャルたちは、都市に出てくる限りにおいて表象されるけど、地元でスウェット着てるような子たちは、「僕らをいじめるあいつの彼女(頭は悪いに違いない!)」としてカリカチュアライズされることになるんだろう。

や、何が言いたいかっていうと、スウェット女子は、どうやったらヒロインとしてキャラ化できるのかなあって話。どうせニッチなんだし、ブームになんかなりようもないものだからこそ、超かわいいスウェット女子を創造するのって、楽しいお話になると思うんだけどな。

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