「世代の因果」と「介入する他者」

雑記

アニメの放送が一週間は遅れてしまう地方に住んでいると、ネット上での「けいおん」の評判もなんだか遠い喧噪のように思える。もしかすると、光のどけき春の日にあたまがぼーっとしているだけなのかもしれない。最終巻を読んで期待が高まっていた『とらドラ!』のアニメ最終話が予想以上にいい出来で、何度か見返しているのだけど、何度見ても卒業シーズンのように気持ちが温かくなる。

だいたい、物語というものに対する昨今の感想ときたら、「泣ける」だの「感動の嵐」だの、いちいち大げさすぎるのだ。涙は流れないけれど、「じーんとくる」って感想があったっていいじゃないかと思うし、その方が普通だろう。たぶんこれは、テレビに映った芸能人の涙ぐんだ顔を「号泣」とかって表現してしまうのと同じで、感情のリミッターを下げることに対する強迫的な欲求があるのだと思う。そういえば以前、黒瀬君と「なんで第4世代オタクって”抜く”んじゃなくて”泣く”んだろう」って話になったことがあって、実際のところは分からないけど、まあ面白い話だよなあ。

きっと泣きのポイントは様々だし、単純なストーリー・話形の分析だけではそのツボを見つけるのは難しいんだと思う。『Air』における「幸福な関係構築に介入することの不可能性(=僕なんかいらないんだ)」に泣いた人が、『CLANNAD』の「幸福な関係によって得られる自己肯定(=君がここにいていいなら、僕もここにいていいんだ)」に泣けるとは限らないけれど、もしかしたら両者は同じ人の中で矛盾なく享受できる共通の要素なのかもしれないわけで。だいたい僕はどちらの作品にも泣けなかったので、その読み自体が(批評的にではなく社会学的に)間違っているんじゃないかという気もするし。

とはいえ、どうしてこの手の作品って揃いも揃って「家族」がテーマなのかなとも思う。他にもいい作品はあると思うのに、なぜか「家族、ないし疑似家族的な関係を構築する」作品ばかりが注目されていないか。妹ゲーとかはたぶん、マンネリ化しやすい設定に色を持たせるために「家族とは」みたいなことを言い出すのだと思うけど、そうではなくて、明らかに「友人関係」や「性関係」を築くことは、家族を形成することと近似の出来事だ、という前提で考えられているような作品のこと。

それは別にオタクコンテンツに限った話ではなくて、マンガだってテレビドラマだってそういうモチーフは目に付く。社会学的には、(1)愛情に支えられる戦後民主主義的核家族が、その前提となっていた階層上昇イメージを失ったこと、(2)相対的に豊かさの水準が上昇したことによる、家族の余暇時間の個別化があり、そうした「家族の危機」の段階を経た後で、(3)未来への不透明感が高まったことで「いまここ」の存在論的安心を確立するための基盤として「家族の理想」が追求されるに至ったことが、その背景にあると考えられる。簡単に言うと、現実の家族の回復ではなく、「ほんとうの家族ならば当然存在しているはずの、あるべき姿」が求められているということだ。

だからそこで立ち上がる「家族」は、両親が離婚しているとか、血が繋がっていないということを問題にしない。「理想の家族のような絆があれば、どんな形だってほんとうの家族だ」という自己言及的な家族の定義が人々に内面化されると、家族の形態と、それを家族と呼べるかどうかという出来事が非関連化する。したがって「ほんとうの家族」を描くために、登場人物の家族形態が「普通ではない」という設定から始める方がやりやすくなる(崩壊した家族から幸せな疑似家族へ!)というわけだ。

しかし、だとしてももうひとつ気になることが残る。いくつかの作品に見られる「世代の因果を断ち切らねばならない」というモチーフだ。『とらドラ!』の場合、小説版の方がこうした傾向が強く出ていたと思うけれど、そういえば『CLANNAD』もそうだったか。

「自分の今の境遇は、自分と親との関係の中で生じたものであり、自分が親と和解しなければ、自分は恋人や子どもに対して親と同じことを繰り返すはずだ」という想念は、おそらく90年代以降、「AC」や「トラウマ」の概念が俗流的に普及したことに対するリアクションとして生じている。先ほどの話と絡めるならば「親との和解=世代的に継承された因果の切断こそが、真の家族を形成するための条件である」と見なされているということになろうか。だからこそメインヒロイン以外のルートで辿り着いたエンディングは、「因果を継承してしまう可能性」をはらむ不完全なものであり、トゥルーエンドではない、というストーリー構成が可能になるのだ。

「泣きゲー」と呼ばれるゲームを数本プレイしただけの感想だけど、こうしたモチーフはむしろ、80年代から90年代にかけての少女マンガで頻出したものだった。『イグアナの娘』は、それがすぐれて団塊親にとっての親子孫関係に絡む問題であったことを明らかにしていた(『AERA』的世界観!)し、『彼氏彼女の事情』や『フルーツバスケット』など、そうした「因果」に絡む名作は、男女問わず受け入れられていたと思う。きっとそれは単純な「親との関係」というより、「親になるであろう(なってしまった)自分と子どもとの関係を、自分と親との関係に転移する」ことの表出だったのだ。

なんでそのことでオタク系コンテンツが「泣き」を獲得したのかについてはよく分からないし、当事者の話を聞けば聞くほど「語られている理由」の必然性のなさが目立つようにも思える。別にその理由は、この物語じゃないと出てこないわけじゃないでしょうっていう。ケータイ小説に対する両義的な評価を見ても、もしかするとそこには、話形やパターン認識に回収されない「泣きのツボ」があるのだろうか。

でも、何もかもを、疑似家族的な――だけれども「ほんとうの家族」と呼べるような――関係の構築に回収してしまうのは、ちょっと飽きたなという気もする。僕が『こどものじかん』という作品をいいなあと思うのは、レイジの抱えた世代の因果を、りんが進んで引き受けようとするのに対して、教師である青木は「介入する他者」でしかあり得ないからだ。これが少女マンガなら、レイジが改心してりんを解放する、ケータイ小説なら、レイジが死んでりんと青木が結ばれる、とかいうオチが付くのだろうけど、どちらにせよ、あるいはそれ以外のルートに入るにせよ、教師である限り青木は結局のところ、りんの家族にはなれない。そのことが「教師という仕事」の本質と絡み合いながら描かれているからこそ、『こじか』は教育マンガとしても素晴らしいのだ。

僕としては、りんがこのままレイジとも青木ともくっつかずに、10数年後、りんに対する不祥事で青木がクビになってしまった後の双ツ橋小学校に教師として戻ってくる的なラストを期待しているのだけど、それもさすがにベタか。ただやっぱり、人は他人と築く関係の中でしか生きられないし、世代の因果があろうと、ほんとうの家族を求めていようと、そんなことおかまいなしに無粋に踏み込んで、自分を値踏みする人と関わっていかなきゃならない。「ほんとうの家族」という自己言及的なコクーン(繭)を求めることが理想化されているからこそ、「そうなれなかった人生」について描くことこそが倫理的なのじゃないか。

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