「特殊だからこそ普遍的」

ネットの流行はサイクルが早くて、ある時期に盛んに論じられていたことがひとたび沈静化してしまうと、とたんに何が論じられていたのかまでも忘れられてしまうことが多い。そして時間がたち、いくつかのテクノロジーが更新され、人が入れ替わったくらいのタイミングで、まったく同じ議論が繰り返されたりもする。ときにはかつての論争に参加していた人が、過去を参照することなく、かつてと同じ論陣を張ったりもする。「いま」のホットトピックに飛びつくことで得られる注目や称賛の味を覚えてしまった人にとっては、必要なのは議論のスタートであって、過去に存在した似たような話が、どう収束したのかを思い出すことではないのだ。

梅田望夫氏のインタビューから「日本のインターネットは残念」という一節を切り出してフォーカスしたとあるメディアの思惑通り、彼の発言は多くの「日本ネイティブのネットユーザー」からの反発を呼び起こした。典型的な反論のパターンはふたつ。「そうした価値判断は、シリコンバレー中心の見方に過ぎない」というものと、その感覚と表裏一体をなす、「日本のインターネットは、海外とは違う特殊性ゆえに、世界にアドバンテージを持っている」という主張だ。

こうした「舶来のネット」対「日本の自生的ネット文化」の構図を見て僕がすぐに思い出したのは、「blogが一般的になったときに、『mesh抜きでは日本におけるblog草創期を語れない』と言われるようなサイトにしていきたいですね。(言いすぎ?)」発言に端を発する「ブログvs日記サイト」論争だ。見たところこの論争を思い出している人があまりいないので、結局この騒動は日本のブログ草創期に不可欠な出来事ではなくなったのかもしれないけれど、色々と今のトピックに近い対立軸があったように思える。

その全てを挙げていく必要はないにせよ、特に興味深いのは、はてなの「ウェブ日記」とかいう説明書きが「ブログ」に変わったというあたりだろう。ほとんど忘却の彼方だけど、確かこの辺の経緯については、東浩紀さんの『波状言論』で近藤社長にインタビューした際にも話題になっていたはずだ。この辺りから、「もともと日本には日記サイトの伝統があり、ブログのような舶来文化をありがたがっている連中は、それを不当に無視している」という批判が、いつの間にか「まあどっちでもええですやん」というぐだぐだな立場に回収されていく。

ある時点までは確実に、ネットで個人的なことを「日記」という形式で発信し、ときに何らかの主張を折り込むという文化は、日本でもっとも盛んなものだった。だけれども、ブログやSNSの普及と、日本のネット接続料金の低下、常時接続の普及といった土台の条件の整備とが並行する過程で、それは日本独自の「日記を書く(そしてあまり批判的でない少数の閲覧者に見てもらう)」という文化と、ソーシャルなテクノロジーの持つコラボレーション性、クリエイティブ性との二重構造へと編み上げられていったのだ。

Web2.0だの、デジタル・ネイティブだのといった舶来のネット文化が日本に輸入されるたび、日本のネットでは、それにいち早く飛びつこうとする層と、既に存在する「土着的」なネット文化にアドバンテージを見出す層の対立が起きる。それは「ビジネス」対「嫌儲」、「エリート」対「大衆」、「自律した個人」対「衆愚」、「市民ジャーナリズム」対「2ちゃんねる」、「YouTube」対「ニコニコ動画」のような局地戦(に対する外野の野次)を、幾度となく引き起こしてきた。梅田氏の発言に対するリアクションは、ぐだぐだになりかけていたこの二重構造を、改めて浮き彫りにし、おそらくはその一方を称揚する方向で、言説空間を構成している。

以前の論争と、梅田発言を取り巻く議論には見過ごすことのできない違いもあるにも関わらず、僕がこうしたことを指摘したいと思うのは、そこに、日本の思想史における典型的なパターンを見出すことができるからだ。それは具体的には、「日本は西洋社会に根付いた理念や制度を欠いたダメな社会である」という主張と、「西洋の基準からすれば日本はダメかもしれないが、実はその恥ずべき特殊性が、世界に冠たる日本を生み出す原動力となりうる」という主張の対立である。

近代日本思想史の研究からその対立構造を鋭くえぐり出した、アンドリュー・バーシェイの『近代日本の社会科学』では、明治以降、5つの契機がこの主張を形成してきたことが指摘される。すなわち、(1)19世紀後半の「ネオ伝統主義」、すなわち「つくられた伝統」としての「日本的なるもの」の発見、(2)20世紀初頭の自由主義に基づく「不公正な日本」の社会改造への志向、(3)社会改造を試みつつ日本特殊性論に回収されていったマルクス主義、(4)「戦後民主主義」から「高度成長」への転回、(5)文化主義に基づく「ネオ例外主義」という史的契機だ。

すごく乱暴なまとめ方をすると、日本の社会科学は「西洋は偉い(それに追いつけない日本は変)」と「日本は特殊(だがそれが世界をリードする力になる)」の間を揺れ動いてきたわけだ。近年であれば、戦後の高度成長とそれに伴う「近代化」の成功、さらには製造業でアメリカとの経済戦争に互していくまでの力をつけた日本の原動力として指摘された、「集団主義」や「カイシャへの忠誠」といった特殊性を称揚する「日本型経営」論などがそれに当たるだろう。日本は西洋と異なり、封建制の残滓である遅れた集団主義を持っていたがゆえに軍事戦争に敗れたと思われていたが、実はその「日本的なもの」こそが、経済戦争を勝利に導くというわけだ。

実はバーシェイは、こうした文化的な優越論は、経済成長に支えられたものに他ならず、経済が停滞すれば文化主義も後退すると見ているのだが、そこは少し異論がある。というのも、いまの日本のネットやサブカルチャーを取り巻いている「特殊論」は、たとえばアニメやポピュラー音楽が世界で「売れて」いるからではなく、外国の人に「受け入れられて」いるから誇られているという側面があるからだ(アニメはディズニーとの経済戦争に勝利したか?)。

要するに、日本のサブカルチャーは日本にしかない特殊なもので、しかも西洋のものに比してすごく「恥ずかしい」ものであるにも関わらず、それゆえに世界で受け入れられる普遍的な文化になっているから、日本人ももっと胸を張りましょう、ということだ。バーシェイの議論は、軍事戦争に敗れ、経済戦争に勝利した日本の「特殊性という自意識」が、経済抜きの文化戦争に勝利できるか否か、という論点に応用して読むべきではないか。

僕自身は、こうした一回捻りを挟んだ文化的ナショナル・プライドの高まりは、実際には様々な下部構造によって支えられているに過ぎない比較優位性を、「日本人らしさ」という無形の要素が生みだしたものとして盲点化し、単なる現状肯定や自己肯定のためのロジックに回収される恐れがあるという点で、手放しで賛成はできない。「エリートのみなさんには分からんかもしらんが、日本の大衆には、世界に冠たる土着文化があるのだ」と胸を張るのは構わないが、その土着性に支えられているように見える日本のネット文化やサブカルチャーが、単なる先行者利益で保持されているに過ぎない「一回限りの花火」だとすれば?枠組みに慢心してイノベーションを停滞させることは、製造業に強みを持ったがゆえに情報産業への構造移行を遅らせてしまったかつての日本と同じ道を、僕たちの前に開くのではないか。

ちなみに、最近のネット論の中でも、ありがちな「日本文化は特殊だから、ネットからもこういう面白いものが出てくるんです」以上の議論をしようと頑張っているのは、やっぱり濱野智史君なんだろうなと思う。ときどき現状肯定的な特殊論に転びそうになりながらも、なんとかしてそこに普遍的なメカニズムを見出し、記述しようとする彼の仕事は――日本の思想史を考えれば成功するのはかなり困難だとはいえ――他とは切り離して評価されるべきだと思う。

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