「近代の変曲点」としての現代(後編)

前編を書いたらもうすっかり後編を書く気が失せてしまったのだけれど、言った以上は書かないといけないわけで、前回の続き。僕が見田さんの議論から抽出した関心とは、現代社会において、(1)近代型核家族システムは曲がり角に来ているか、(2)合理性の外側は思考されるようになっているか、という2点だ。見田さんは僕の見立てではこうした問いに非常に両義的な答え方をしていて、近代型システムから「反転」しているというよりは、それと併存しうる脱・近代的価値観が志向されていると見なしているのではないかと思う。

なぜ僕がこのふたつに特に注目したかというと、これらの要因がまさに現代の消費社会の本質を規定し、また日本における地殻変動の指標となっている、と考えているからだ。非合理なものの消費との結びつきについては、「マクドナルド化」でお馴染みのジョージ・リッツァが『消費社会の魔術的体系』で指摘しているとおり、合理的なシステムを背後に持ちながら、消費者に現前する段階においては、非常にマジカルで幻想的なものが重視されるというような事例が考えられるだろう。

こうしたシステムは、不要なものを人々に消費させる「まやかし」にすぎないと、彼はおそらく考えている。その意味で彼の「魔術化(Enchanting)」への批判は、ある意味古典的なヴェブレン-ガルブレイス流の消費社会批判のようにも見える。しかしこうした現象を、アラン・ブライマンの言う「ディズニー化」として捉えてみればどうだろう。そこに起きているのは、マクドナルドのような画一的で、合理化されたマニュアル対応に対する批判から生まれた、顧客と、そしてときには従業員に対しても、ひとりひとりの「個性」を尊重し、それを活かしていくような消費空間設計、彼の言葉を借りれば「差異に配慮した」消費社会の出現だ。

そうした傾向は、現在の日本において、どこに生まれているか?僕が気になっているのは、日本各地に生まれている、郊外のショッピングセンターやアウトレットモールの「遊園地化」だ。以前も観覧車に絡めて論じたことがあるけれど、こうした消費空間は、往々にして複合商業施設とエンタメ施設が一体化したものになっている。そしてこうした空間が生まれ始めた10年前ぐらいに同じくマーケターたちによって注目されていた「ジモト」としての郊外を生きる若者たち、つまり現在の30代から20代後半くらいまでの世代の中でも、そのジモト=ネオ郊外に住み、家族を持った人々こそが、その消費空間の主たる「顧客」なのではないか、というのが、僕の今持っている仮説だ。

なぜこうした人々が「ネオ郊外」のエンタメ商業施設を志向するのか?そこに先の「近代型核家族からの離脱」というテーマが関わってくる。そもそも近代型核家族じたい、田舎(地元)を離れ、賃労働者として独立した収入を得ることが可能になった「都会の根無し草」たちのあいだに、アメリカ型の消費生活と、親子の愛(再生産)とは独立した夫婦愛(「こんにちは赤ちゃん」!)によって営まれる家族理想の混合物として生まれたのだった。そこではいわば「子育て」そのものを即時的な消費活動と結びつけていくような力が、はじめからはたらいていたのである。

だがそれは、内田隆三的に言えば、失われた「家郷」の代替として、帰るべき「ホーム(家庭)」を築くということに他ならない。それが「ジモト」、すなわちネオ郊外の「ホームタウン」として確立してしまえば、そこに育った現代の若い家族にとって必要になるのは、「家庭」のうちを豊かにする家財や車を持つ――人並み中流幻想に追いつく――ことではなく、「家族」の内面を豊かにしてくれる「何か」であるはずなのだ。見田氏の議論に従えば、近代型核家族が「中流」の暮らしに向けて「生産」を原理に家族を営むことを期待したのに対して、ネオ郊外のニューファミリーたちは、いまある「中流」の暮らしを所与のものとできる限りにおいて、「消費による家族理想の実現」を目指すのである。

その場合の消費とは、ストックを増やすことではない。むしろ、既に必要なだけのストックを抱えた家庭を離れて、非日常的な消費空間において、パパはパパの、ママはママの消費活動を行い、その間に子どもたちを隣接するエンタメ空間で遊ばせること、つまり家族のひとりひとりが「個人」として「自己のための消費」を行うことができる空間へ参入することが、そこでは求められている。地方にいて驚くのは、文字通りディズニーランドかと見まごうようなアウトレットモールに併設された、モールの数倍の面積の駐車場と、そこに向かう車で渋滞する近隣という光景が、休日ごとに見られるということだ。そこで子どもたちは遊園地のような施設で遊び、コールドストーン・アイスクリームの歌声を聴く。ママはZARAやH&M、FOREVER21、あるいはそれに準ずるようなカジュアルブランドを買い込み、そしてパパは久しぶりに家族から離れてほっと一息をつくのである。

むろん、こうした見立てはまだ単なる仮説だし、何より近年の格差意識の広がりによる状況の変化に対応できていないという批判もあり得るだろう。あるいは三浦展氏なら、むしろそうした消費こそが「下流」の証だと言うかもしれない。けれど見田氏の「近代の変曲点」というコンセプトから学ぶべきだと僕が考えるのは、まさにそうした「近代型核家族」や、それを前提にした「消費社会」が、どのように世代的に継承・断絶しているかという点について考えるべきだ、ということなのだ。

かつてリースマンがそうしたように、「お父さんたちの時代とは違うんだ」という出来事を社会変動として描き出すことは、消費活動を現在として描き出す近視眼的マーケティングや、消費のモデル化を目的とする経営学とは異なる、社会学独自の営みであり得るし、他の領域の事象に応用可能な原理を引き出す有効な資源になる。そうした理念の追求よりも、「既存の分野」の「作法」に従った「堅実な研究」を量産することが(現実的に)推奨されるいまだからこそ、僕はとりあえずそうでないやり方を取ろうと思うのだ。

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