傷つくだけ傷ついたら

ネットでマンガに関する好意的なレビューを読んで実際に買ってみても、「アタリ!」と思うことはほとんどないのだけれど、日常的に大きな書店のマンガコーナーに立ち寄るのも難しくなってしまった今では、やっぱりそういうレビューこそが唯一の情報源だ。そんな中で久しぶりに感想を書きたくなるマンガに出会ったのでご紹介。

小田切里は、仕事の腕は一流、料理上手で、不細工で長身だけれどもなぜか男にモテるスーパー家政婦。しかし彼女の仕事先での態度は、およそ家政婦とは思えないほどの放漫さ。それでも仕事ができるから追い出されることはない。この一癖も二癖もある主人公が、行った先々で関わっていく騒動や人間関係が描かれた短編が三本。ストーリーは何の関係もないが通底するところのあるテーマを描いた作品と合わせて四本の短編が収録されている。

特に里のストーリーが胸を打つのは、彼女の一見無礼に見える態度が、相手に対する本音の距離での触れあいを示すものであり、そのことが結果的に、彼女の雇用主たちを傷つけつつも、大切なものに気付かせるきっかけにもなっているからだ。というとこのお話は里をマレビトとした「回復」のストーリーのようにも思えてくるが、実際はそう単純ではない。というのも里自身、雇い主たちとの触れあいの中で傷つき、涙しているからだ。

詳しいネタバレは避けるが、里が向かう先には、過去の因縁や彼女の人生観に関わるような出来事が待ちかまえていて、それに触れることは里にとってとても「痛い」ことなのである。けれどもその中で彼女は、自分自身の距離感で雇い主たちと向き合いつつ、その人たちを傷つけ、また自分も傷つく。ストーリー全体がまるで、「人生なんて傷つくことの連続。だけど、それがなんだっていうの?」と、泣きながら語っているかのようだ。

涙の数だけ、人は強くなれるだの優しくなれるだのといつも言う。そんなとき「彼女たち」は、人生に対して「上手に傷つくこと」を求められている。たくさん傷ついて、たくさん泣いた少女時代から、涙を折りたたみ、傷つき方もやり過ごし方も上手になることを。その裏側に隠された「でも僕(彼)の前だけでは泣いてもいいんだよ!」というありがちなメッセージで読者を癒すような作品に僕は苛立つし、自分の経験で言っても、そうした「あなただけへの涙」を見せる人たちを、幼少の頃から冷めた目で見ていたわけで、だからこそ里に対してすごく共感できるのだと思う。

里は、傷つくことに上手にはなれなかった女性だ。でも彼女は、人を傷つけるのがとびきりうまい。男性が傷を付ける性で、女性が傷を負う性だというのは、一面では正しいのだろう。でも、女性が傷つける側として苦しんだことがないなんて、そんなことがあるわけはないのだ(里が出てこない4つめの作品も、同じテーマを共有している)。里は「かつて傷つけられた者」であると同時に「いま傷つける者」である。そしてそのことを受け入れつつも、傷に対して不感症になってはいない。だからこそ、彼女は男性だけでなく、女性にも(性的な意味で)モテるのだろう。

男性の読者としてそれを読む僕は、少しだけずきん、となる。彼女が傷つくことで、それを受け入れる僕が居場所を獲得するという、宇野君風に言えば「レイプ・ファンタジー」に染まった男性にはむろん用はないけど、そもそも彼女の世界観には、男性一般に居場所がない。里は、男たちから何かを得ることはあっても、彼らに決して与えることはないのだ。そんなとき僕はいつも、そういう作品の登場人物みたいになりたいと思う。里と同じように傷ついていて、けれど傷つけられることにも傷つけることにも上手になっていて、だからこそ里と同じ目線で、まるで子どものように笑いあえるような、そういう大人の男。

僕が好きなタイプの「女性が女性を描くマンガ」には、だいたいそういう「子どもみたいに相手をしてくれる大人の男」と「マジで子どもな同年代の男」が対比的に描かれていて、自分が後者の、どうしようもなくバカっぽいこいつと同レベルだってことに落ち込み、読んだ男性たちを、「脱・子ども」の鎖で縛っていくこと請け合い、というものが多い。たぶん、それでいいんだと思う。里みたいな女性に上手に傷つけてもらわなければ、きっと僕ら大人になんてなれないのだ。

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