続・文化祭化する日常

もう10年も前のことになるけれど、「文化祭化する日常」という文章を書いたことがある。まだ「Phase II」が付く前の僕の個人サイト(当時は日記はあってもブログなんかなかった)での話だ。その後、サイトをブログ化したり、データがクラッシュしたり、サイトを閉鎖したりといった経緯もあって、元の文章は失われてしまったので、長らくどんな話だったか忘れていたのだが、ふと気になるところがあって、Web Archiveで検索して読んでみた。約1年半で12本の文章が書かれていて、どれもとても興味深いというか、10年前から考えていることがほとんど変わっていないことに驚いた。進歩がないともいう。ま、そのうち10周年記念でどこかに公開するかもしれない。

で、そもそもなぜそんなものを読み返そうと思ったのかというと、アニメ版『けいおん!』の第12話を見て、ああ、「日常の文化祭化」の行き着く先が、こういうことなのかな、という感慨を持ったからだ。特に「いまいる講堂が私たちの武道館です!」という台詞は象徴的だ。前田久君が言ってたのだけど、1986年のBOΦWYが、バンドとして上り詰めた頂点を「ライブハウス武道館」と宣言し、「非日常をいまここ化」したのに対し、唯は学園祭の講堂で、「いまここ=頂点」と宣言してみせたわけだ。

「文化祭化する日常」という文章は、素人参加型番組などに見られる「努力の物語」について書いたものだった。努力の結果、何らかの偉業を達成し、それを見ることを消費する傾向が、どのような背景から生じたものであるのか、ということについて、当時の僕は次のように書いている。

今の子と話していると、「自分が努力すれば何でもできる、そうでなくても、努力は報われる」とか、「上手くいかないことがあるのは、自分の努力が足りないからで、人のせい、社会のせいにしてはいけない」という考え方がもう普通になっているのだということに驚かされる。これは特に1977年以降に生まれた世代の間で著しい。

実は学部の卒論でも既に書いたことなのだが、この背景には外部環境を変革するための動機づけが乏しくなったということがあげられる。つまり「社会は変わる」と信じられていた時代には、社会運動に対するインセンティブが多く、結果として学生運動のような形で結実した。また学生運動の終息後、もはや「社会が変わる」とは思えなくなったが「生活は変わる」と信じられた時代には、モノで自分を満たすことで生活を変えようとする消費社会が到来した。

しかしながらあらゆる記号的差異を使い果たし、もはや「どの商品も同じ」、正確に言えば「どの商品も違っているという点で同じ」であるような現在では、モノの消費が生活の変化に直結するとは信じられない。だからこそ「自分自身」が、変革しうる最後の外部環境として立ち現れてくる。

正直、この文章全体としてはまとまりもないし、結論もぼんやりとしたものだと思ったのだけど、引用した部分の考えについては、いまもそんなに変わっていない。というより、90年代の「個性」がファッションなどの消費に裏打ちされたものだったとすると、「どのような消費によっても差異化=個性化されないわたし」が唯一性を獲得するための手段としての「文化祭」は、現在の方がむしろそれ自体として常套化しているのではないかとすら思える。

似たような話は、別の文章(「『プチ有名人』と有名性」)でも書かれている。これはカリスマ店員などの「プチ有名人」について分析したものだが、彼ら・彼女らに対する僕の見方は次のようなものだった。

そして、もうひとつ彼ら「プチ有名人」に特徴的なことがある。彼らは有名になって、雑誌にもたくさん出るし、読者モデルの場合はスタイリストがついてきれいにメイクしてくれたりもする芸能人並みの扱いを受けるが、それでいい気になって芸能界入りしようなどという向上心を見せるものが少ないのだ。もちろんDragon Ashの降谷健志やWith Tの岸田健作、Deepsのチカのように読者モデル出身で芸能界入りしたものがいないわけではないが、大多数のコたちは、高校卒業と同時に読者モデルも卒業してしまう。

どうも、彼らだけではなくて、社会全体が「素人ブーム」のようだ。素人読者モデルから、素人参加型番組、果ては素人風俗嬢(!)まで、「非有名人・非プロ」であることで、受け手との距離が近いことをアピールしているといえるだろう。

そういう意味では、インディーズバンドやジャニーズJr、駆け出しの芸人さんたちのファンなどは、彼らがメジャーになったところで離れていく人たちが多いことからも、彼らに「素人っぽさ=距離の近さ」を求めていることがうかがえる。

また、それに伴ってワイドショーの位置付けも変化している。かつてワイドショーの看板だったのは「芸能人の恋愛スキャンダル」だったが、当の芸能人の側がメール恋愛だったり、交際していることを公にしたりするものだから、企画として成り立たなくなってきている。

また、11月7日付の朝日新聞で人気番組「進ぬ!電波少年」のプロデューサー土屋敏男氏は、「電波」の企画がワイドショーの手法を素人に持ち込んだものであることを明かしている。その他にも「愛する二人・別れる二人」や「恋愛地球号あいのり」など、素人の悲喜交々を題材にした番組は多い。

要するに、求められるものが「普通でない人(芸能人)の普通の話(恋愛など)」から「普通の人(素人)の普通でない話(離婚・貧乏旅行)」へと移ったということなのだろう。

学園祭のステージという「プチ頂点」への到達を喜ぶ気持ちが、かつてはなかったのかと言われれば確実にあっただろうし、今だって真面目に「てっぺん」目指して頑張っている人もいるだろう。ただ、ある振る舞いの動機付けの構造を考えたときに、「いまここという頂点」を分かち合い、感動し、涙するための仕掛けへのアクセスが容易になったことで、文化祭と日常の境界が曖昧になりやすくなっているということは言えそうだ。

結局それってお前の言ってるカーニヴァルってこと?と言われればその通りなのだろう。ただ2005年に『カーニヴァル化する社会』を出したときには、その現象への評価は両義的で曖昧なものだった。それをどちらかというと批判的に取り上げた三浦展さんの『下流社会』のように、ネガティブに言おうと思えば言えるのかもしれない。ただ当時から僕には、ここではないどこかの頂点を目指す生き方には違和感があったし、それを否定することから生まれてくる連帯や創発的なおもしろさだってあるだろうという予感もあったのだ。

そこで僕が念頭に置いていたのはネットコミュニティの繋がりだったのだけど、それだって実はどこかで「いまここが楽しければいい、という祭りから生まれる社会変革」への期待があったのだと思う。別に目指してなかったんだけど、なんかノリで遊んでいるうちに世の中変わっちゃいました、みたいな。その期待は、特にネットに関してはいまでも持っているし、ニコニコ動画を含め一部では達成されたようなされてないような、くらいのものだってあるだろう。たぶんLifeだって、積極的にこれまでのルールに逆らうつもりはないけれど、ルールに書かれていないことなら色々試してみたいという思いはある。既得権が崩壊するって中学生の頃から言われていて、でも結局何も壊れも壊せもしなかった僕らには、ルールの外に新しいゲームを作るやり方が、一番しっくり来るのかもしれない。

でも最近では、もうそういう変革すらも起こらなくていいんじゃね?という人たちのプチ祭りのこともちゃんと考えるべきなんじゃないか、と思うようになっている。ここ10年とか5年くらいの単位で「現在」というものを考えるとき、まさにその現在において求められているのは、どこにでもあるありふれたものが唯一性、一回性を帯びていくプロセスなのだと思う。唯一のものにアクセスすることで、唯一性が獲得されるのではない。どこにでもある「これ」が、「ここ」が、私にとっての「たったひとつのたいせつなもの」になっていく、その過程で挟まっている「何か」のことについて、考えてみたいのだ。

それはネットというより、ローカルなコミュニティ、というか単に「ジモト」と呼ばれている何かに介在し、機能している。そこで生きている人たちは、「どこにでもあるけど、ここにないとダメなそれ」を、唯一のものとして享受し、消費し、それに依存する。というよりもう、それしかこの国には、紐帯のための資源と呼べる資源がないのだ。地域性の多くは資本主義が捏造したものに過ぎないし、そもそも人間の流動性が高まれば、「地域性の継承」など、メディアが介在して創作しなければ起こりようがなくなる。

そこでその「どこにでもあるもの」を「一回限りのたったひとつのもの」にするのは、たぶん人間でしかあり得ない。確かに人の心理はいいかげんだから、「博多っ子」だの「江戸っ子」だのと言われているうちに、実際にそうした傾向が生まれる前からあったかのように振る舞うことができるし、そのようにして再生産されていく「ノリ」を「地域文化」と呼ぶことだって可能だろう。でもそれは時代と共に、世代と共にゆるやかに変わるものなのだ。そしてそこでは、数十年のスパンで変わらなかったもの、十年前とは変わったもの、日々変化するものなどが積み重なって「俺たちのジモト」が形成されている。

いまここを武道館と宣言する唯の学園祭は、17歳の一回限りの出来事だ。学園祭は毎年、どこの学校にもあるけど、その年の学園祭は一度しかない。僕はメディアによって延命・再生産されているに過ぎない地域性よりも、唯にとっての学園祭のような、ありふれているがゆえに唯一のものになるような地域性のことを考えるべきだと思う。そうしたものの中に、それでも抜きがたく存在している、継承されてきた文化があるのだとしたら、それこそが「ほんもの」の「ここにしかないもの」なんじゃないか。文化祭が日常だというなら、その文化祭の繰り返しと積み重ねを丹念に見ていく、腰を据えた視点が必要なのだと思う。

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