連れだって歩く生活

雑記

8月は、なんだかんだで月の3分の1は家を空けていた。会議のために東京に行くと言えば、じゃあついでにとあちらからもこちらからも取材だの打ち合わせだのの依頼が来る。彼らにとっては、相手は自分の都合に合わせてやってくるものなのだろうし、それに合わせられなければ、「ご縁がなかった」で済まされるものなのだ。もちろんそうなることを見越して、昨年のうちからかなりの仕事を若い後輩たちに振ったり、引き継げないものは終了したりしてはいたのだけど、それでも残る仕事はいくつかある。おうちに引っ込んで穏やかな日々の生活を送るなんていうのは、どうやっても性に合わないらしい。

就職して一番困ったのは、「休まなければいけない」ということだった。大学の周辺は19時過ぎには人っ子一人出歩かなくなるし、ほとんど全ての資料を研究室に置いてしまったので、休日出勤しない限り週末は絶対休みになる。大学教員は忙しい、というし、実際これからどんどんそうなるのだろうけれど、基本的にフリーランスで仕事をしてきたこの数年より忙しくなるってことは、物理的に不可能なのだ。

そうやって多少の余暇ができると、たちまち強いアイデンティティ・クライシスがやってくる。最初のうちはひたすらゲームしたり作曲したりしていたのだけど、そのうち自分のレベルが落ちていく恐怖に襲われて、家でもできる勉強を始めた。あれ、僕ってこんなに向上心強い方だったかな、と驚くくらい。

たとえば19時に仕事を終えて、同僚と「今日どこか寄ってく?」なんて話をして、仕事の愚痴とか話したり、部長とあの子が不倫してるらしいよ、なんて話で盛り上がれたりする人生は素敵だと思う。ベンチャーで働いていた頃、すごく居心地の良かった会社は、そういうことができる仲間に恵まれていた。僕たちはまだみんな20代の半ばで、オールして出社したってなんとかなるくらいの体力はあったのだ。

でもその頃の僕は同時に大学院に通っていて、学費を稼がなきゃならない身分だったし、最初の本が出てからは「あの、来週アメリカ大使館で講演しなきゃならないんですけど、お休みいただいていいすか」ってのをボス(同い年だけど)に申請したりとか、そんな状態でもあった。鍵を持ってない身分だったから、基本的に残業はできなかったけど、仕事帰りのささやかな楽しみで疲れを癒す、なんて生活は、金銭的にも時間的にも不可能だった。バイト先の会社に勤めていた女の子と付き合うことになったけど、お財布のレベルが合わなくて結局別れてしまった。

そうした生き方ができなかった悔しさやもどかしさが、人の何倍も仕事して、人より大きな結果を出す、という自分の行動スタイルに反映されている、と思う。有り体に言えばルサンチマンだ。だから、突然「休み時間」っていうものを与えられても、何をしていいのか分からない。仕事帰りの一杯で疲れを癒す?その一杯はむしろ疲労を残すし、それだけの体力があって、なんでそれをお酒で流さないといけないのか、僕には理解できないのだ。

東京という街は、そういう一匹狼に、とても優しい。狼だって寂しいときはある、けれど、毎日群れていられるほど暇じゃないんだ、しなきゃいけないことたくさんあるし、っていう僕らには、普段はネットで近況を共有して、たまに休みが合うときに集まってわいわいやる仲間がいるっていうのがとても居心地がよかった。mixiでもtwitterでも、僕にとってネットのソーシャルな繋がりというのは、都合よく居場所を獲得したい、という欲望に応えるためのものだったのかもしれない。

新しい街に越してきて思うのは、この街はほんとうに孤独を許してくれないってことだ。とにかく、ひとりで何かをできる場所というのが見あたらない。多くの人が夜には仕事を終え、「今日はどこに寄ってく?」と声をかけながら、同僚や、小学校からの付き合いの友だちと遊びに行く。関西弁で友だちのことを「連れ」というのはとても象徴的だ、と思う。ここの人たちの友だち付き合いは、連れだってどこかに行くことなのだ。そのためには、みんなで一斉に休まないといけないのだろう。

昔から好きだったけど、最近になって、鈴木いづみのエッセイが本当に心に染みるようになった。好きなものも、敵も、そうと「決めなければならない」、と彼女は書く。テレビCMに出てくるような「本物らしい生活」は、自分には合わないと彼女は書く。「速度が問題なのだ」と彼女は書く。周りを顧みずにがむしゃらに働いて、常に自分の求めるものは何かを考え、自分の敵は誰なのかを考え、そこに向かうために周囲の全てを犠牲にするような生き方は、エネルギーがいるし、とうてい推奨されるべきじゃない。けれど、この街の歴史を調べている間に、東京でも大阪でも、1940年代生まれのオリジネーターたちが、みなそうした生き方を貫いてきたことを知った。僕はそこに向かうべきなのか?

街に迷うより、人に迷う方がずっと面倒だ。東京には行きたい街なんてなかったけど、会いたい人はいた。この街には、行きたい場所が見つかっても、連れ立って歩きたくなる人が見あたらない。いたとしても、誘い出すのにはちょっと気後れする。だったらそういう人が自然と集まってくる方にエネルギーを割いてみるのはどうだろう、という思いと、いや、何をやってもうまくいかない時期は、ただじっと上向くのを待つべし、という経験則との間で、今はぼんやりと揺れ動いている。

鈴木いづみコレクション〈5〉 エッセイ集(1) いつだってティータイム
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