ミネラルウォーター・イノセンス

雑記

どんな商業空間でも、日曜日の午後に歩かないことには、その場所が持つほんとうの意味は分からない。もちろんサービス産業が発達すれば、必然的に土日が休みの人ばかりではなくなるのだけど、ファミリー層、特に小学校低学年以下の子供を持つ家族にとって、週末はいまでも大事な「家族との時間」なのだ。

消費空間を歩くときに大事なことは、その空間の典型的な消費者を演じようと務めることだ。もちろん僕が10代後半の女子の気持ちでお台場を歩くことなんかできっこないのだけど、極端な振れ幅でなければ、典型的な人、というかその空間を歩く人のペルソナは割と簡単に想定できるし、逆にその想像力がなければ、単なる「感想」止まりのことしか分からないだろう。

そんなわけで、国際展示場駅を出て、パレットタウンやビーナスフォート、フジテレビ方向へと歩きまわったらすっかり疲れてしまったのだけど、よく晴れた冬の日だったこともあって、どこに行っても人で賑わっていた。目立つのは家族連れと、30~40代くらいだと思われる、ミドル世代のカップル。スターバックスのオープンテラスでコーヒーとか。昔、寒くても根性で生足を出すと豪語していた東北の女子高生を思い出した。

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何度か見たことはあったはずなのだけど、意識して自由の女神の辺りを歩いてみると、なるほどよくできているなと思う。女神像の向こうにはレインボーブリッジ、そして東京タワー。この一直線を見渡せる位置にフジテレビ社屋が立っている。端から計算してロケーションしたのか、ロケーションに後付で意味を持たせるためにドラマ(『踊る』シリーズや『With Love』など)を展開したのかは、もはやどうでもいい。重要なのは、この「全部入り」感が成功してしまったことなのだ。

なにせ、自由の女神の来歴からしてすごい。「日本におけるフランス年」ということで、98年から99年までは、パリにある自由の女神が飾られていたはずの台座には、いま、パリの女神のレプリカが立っている。ここを訪れる人にとって必要なのは、そこに自由の女神が立っていることで、それが「ほんもの」かどうかは問われていない。というかそもそもパリの自由の女神こそが、アメリカの自由の女神のレプリカであるわけで、もはや僕らが経験できるのは、シミュラークルのシミュラークル、模倣の模倣に過ぎないのだ。

そう思うと、レインボーブリッジまで、なんだかゴールデンゲートブリッジのパチモンみたいに見えてくるから不思議だ。きっとここにあるのは、現実に根ざすことで「ほんもの」が持ってしまう様々なノイズを捨象した、より「ほんものらしい」ほんものなのだと思う。哲学的には、現実ではないが現実の持つ本質的な要素を抽出したものを「バーチャル」であると定義する。バーチャル・リアリティとしてのお台場は、そこにやってくる人びとすらも、ほんもの「のような」存在に変えてしまうのだ。

ミネラルウォーターみたいだな、と思う。天然水、という商品は、もちろん水道水とは違うという点で付加価値を持つのだが、しかし本当に「汲んできたままの水」として商品になることはない。ボトリングされる過程でその水は様々に「加工」されているはずなのだ。でもそうやって商品になったモノを僕らは「天然もの」だと見なしている。その無垢さ(イノセンス)こそが、再魔術化の果てに人が辿り着く場所なのかもしれない。

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そこからさらに豊洲に移動。ゆりかもめからららぽーと豊洲が見えたとき、あっ、と思った。建物が、環境の中にとけ込みながら、まるで長年放置された廃墟のようにたたずんでいる。好きだな、と直感的に思った。駅を降り、どうやらこの辺りがURと民間の協力で近年整備された場所であることを確認し、現場に近づいていった。

水辺には公園があって、たくさんの子どもたちが遊んでいる。芝生の上を人が踏みならすと、そこは青々とした緑色ではなく、土と混じり合った茶色になる。ららぽーとのファサードは、その人に踏みならされた地面からの延長のようになっていて、最初に感じた「とけ込んでいる感」は、ここから来ていたのだな、と気付く。

案内を見ると、そこはサウスポートと呼ばれる建物で、ららぽーと全体では、かつてドックだったこの周辺の歴史を活かして、舟形の構造物を取り囲むように商業施設が配置され、海に面したドック側が中庭のようになっている。そちら側に回り込んでみるとまたがらりと印象の違う空間。建築のことは何一つ分からない僕だけど、ああ、その筋の人の評判は良さそうだなと感じた。

お台場のシミュラークル性が、徹底した「それっぽさ」によって保たれているとするなら、ここにあるのは、「快適さ」のシミュレーションだろう。たしかに歴史はあるのかもしれない。けれどもこの空間は、それよりも、上述のような設計によって「快適」とはなんであるかを事後的に構成しようとしている、と思った。お台場がいわば顕示的消費の延長線上に「お台場に来た人らしく振舞うこと」を求める空間だとすれば、ここでは「自分はこういう空間を望んでいたのだ」と、あらかじめその欲望があったかのように人を振舞わせる空間なのだ。人はそこで、空間が求める演技をするのではなく、「自分らしく」振舞うことで結果的に空間の設計意図を裏書きするのである。

ミネラルウォーターのような無垢さではなく、「つくりもの」の上に生まれる無垢さ。それがどうやって生まれたのか、少し真面目に考えなきゃな、と思う。こういう直感に頼るのはほんとうはよくないことなのだけれど、そのくらいインスピレーションを刺激される街歩きだったのだ。

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