聖痕と世界と少年少女(『ヘヴン』編)

神はなぜいるのか、と問われれば、おそらく神の数だけその理由はあるのだけれど、そのうちに共通するものとして、「説明不可能なことを納得する」というものがある。なにも水がワインに変わるとか、そういう超自然的現象の話じゃない。「この世界の成り立ち」について知り、受け入れるために、神は呼び出される。

近代になり、科学的知識に基づいた自然への介入・操作が当たり前になる以前、世界はいまよりもっと不条理に満ちていると見なされていた。人は簡単に死んでしまうし、死なないまでも、病や事故で体が動かなくなれば、生活そのものが破綻する蓋然性が高かった。そんなとき、人は神を呼び出し、これは神の思し召しであり、この受苦に耐えることができれば、いずれ救いがやってくると信じたのである。そしてその証拠として、人の体に刻まれた、神に選ばれたしるしのことを「聖痕(スティグマータ)」と呼ぶのである。

川上未映子『ヘヴン』は、聖痕を巡る、少年少女たちのストーリーだ。主人公である「僕」がある日、クラスメートのコジマから手紙を受け取る。ともにいじめのターゲットになっている二人は次第に心を通わせ、一緒に出かけたりするようになる。その過程でコジマは、二人がなぜこんな目に遭っているのか、という問いを「僕」に投げかける。彼女に言わせると、それは「しるし」なのだ。

「それが神様でなくてもいいけれど、そういう神様みたいな存在がなければ、色々なことの意味がわたしにはわからなすぎるもの。…(中略)…なにもかもをぜんぶ見てくれている神様がちゃんといて、最後にはちゃんと、そういう苦しかったこととか乗り越えてきたものが、ちゃんと理解されるときが来るんじゃないかって、……そう思ってるの」(川上未映子『ヘヴン』p92-93)

そのしるしとは、コジマにとっては父親と暮らした思い出をつなぎ止めるための汚い見た目であり、「僕」にとっては斜視なのだとコジマは言う。だから、自分たちは仲間なのだと。しかし、クラスメートたちに暴行を受け、病院に行った僕はそこでいじめグループのひとりである百瀬に偶然出会い、まったく違った解釈を聞かされるのである。

「べつに君じゃなくたって全然いいんだよ。誰でもいいの。たまたまそこに君がいて、たまたま僕たちのムードみたいなのがあって、たまたまそれが一致したってだけのことでしかないんだから」(同上、p168)

「僕」の目は、「僕」が苛めを受ける原因ではなく、したがって何のしるしでもなく、すべては偶然に過ぎないと言い切る百瀬。作中では苛めグループのリーダーである二ノ宮よりも、百瀬の方が脱社会的な存在として描かれており、おそらくは百瀬への思いが、二ノ宮の行動の背後にあることが示唆されていることからも、『ヘヴン』におけるコジマの対極は百瀬だと言っていい。しかし両者の言い分は、天秤にかけるにはあまりにアンバランスだ。

そもそも、百瀬の物言いには思想などない。いわゆる虚無主義とも違う。「僕」に自分の言動の矛盾を指摘されても、「知らない」などと思考を停止してしまう百瀬。世界は偶然に過ぎない、と覚悟の決断の上で割り切ったのではなく、ただ考えるのが面倒なだけの中学生の戯れ言はしかし、「僕」を大きく動揺させる。それは苛められている自らの境遇の意味というより、「僕」からすれば、コジマが生きていることの意味を否定するものだからだ。

宗教的信念を打ち砕くのは、別の信念ではなく、徹底した無思想だ。そうした百瀬の言葉に触れた後、「僕」はさらに重要な事実を知ることになる。「僕」の斜視が、簡単な手術で、しかも一万五千円程度の値段で「治って」しまうというのだ。そのことをコジマに告げる「僕」は、もはや百瀬の側に立っている。ただ、治るかもしれないという事実を伝えただけなのだ、と。そこには、思想ではなく、無思想を選んだ「僕」の姿があり、だからこそコジマは「僕」に対して失望し、憤慨する。「治るかもしれない」という事実を、「これはしるしである」という思想に対峙させた時点で、コジマにとっては、もはやそれは信仰の冒涜なのだった。

終盤で、雨の中全裸で笑うコジマの描写は、まさしく彼女の信仰の強さを物語っている。まっとうな解釈をするならばここは、弱者道徳に犯されたクラスメートたちと、超人たるコジマ、というニーチェ的図式を持ち出すのだろうが、僕がまっさきに思いついたのはCoccoだった。眩しい太陽の下、腕を切り、血を流しながら踊る少女を唄うCoccoの姿が、ここではとてもよく似合う。実はこの本を書店で見かけて立ち読みしたとき、たまたま一瞬だけ目についたのがこのシーンで、だから僕は冒頭からずっとコジマの顔を、姿を、Coccoに重ねて読み進めていた。

本作の結末は、「僕」の目の手術と、それによる世界の獲得で唐突に訪れる。しかし本作を、世界と向き合うための方法論の物語だと解釈するならば、実はエンディングはもっと前から始まっていた。「僕」がずっと拒否していた、コジマをオカズにマスターベーションするシーンである。宗教的信念ゆえに絆を獲得した相手を、性的な対象として見なした時点で、「僕」はコジマを、俗世の中で幸せにするほかなかったのである。

「僕」は、世界、すなわち自分ではどうにもならない不条理が敷き詰められた未来へと向き合うために、様々な方法論を提示され、そしてそのどれをも選べずに、ただ世界を見る眼だけを獲得する。「眼」であるということがここではとても重要だ。ここで方法論の獲得にもっとも重要なのは、見ることであり、見方そのものを変えることなのだ。「僕」は、コジマの言うように、クラスメートたちに従ったわけでも、無意味だからこそ、治るなら治す、ということで手術をしたのでもない。ただ自分だけの見方を手に入れることが、未来を手に入れることであったに過ぎない。

そこで獲得された見方=未来は、「僕」にとってしか意味がないがゆえに、コジマや百瀬と対等に並びうるものだと言える。本作の醍醐味は、救済でも無思想でもなく、それらを等価に睥睨する眼が、誰にも備わっているということを、教えてくれる点にあるといえよう。だが、それは「ぜったい的」であると同時に、とても孤独でもある。そして問題は、おおかたにして思春期には、「孤独」こそが好んで選ばれるということなのだ。

(つづく)

ヘヴン (文芸第一ピース)
川上 未映子
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