聖痕と世界と少年少女(『ストレンジボイス』編)

雑記

孤独である、ということが、救いになるような時期がある。それとも孤立しているというべきだろうか。つまり、自分が周囲から切り離されていることが、自分が異質な存在であることが、自分が特別な存在であることの「しるし」であるという想念だ。他人と違っているからこそ、自分は尊重されるべきなのに、周囲が無知で蒙昧であるために不遇な状況に置かれる。この種の逆恨みを抱く大人も一部には存在するが、こうした思いは、たいてい思春期のある時期に訪れる。中二病、と呼んだってかまわない。

それを最高にこじらせると、いわゆる邪気眼的なものになるのだろう。その主張(信念)の中身はシンプルだ。自分には選ばれた力がある、本当ならばお前らなど自分の足元にも及ばない、いまは手加減してやってるだけだ、と。そうしたフォーマットの中に『ヘヴン』のコジマを落とし込んでしまえば、とたんに彼女が典型的な中二病のイタイ子に見えてくる。

中二病の克服というテーマは、そもそもそれ自体が中二病的だ。そこを経由した時点で、中二病の自分が黒歴史になることは避けられないのだが、その「恥ずかしい過去」と「過去を折りたたんできた自分」との相克は、解消しようがないからだ。それは中に病的なものを内面から描写しようとする以上、どうしても抱え込んでしまう問題なのである。

江波光則の『ストレンジボイス』は、中二病を、その内面の問題でなく、社会性の問題へと回収するという道を示した作品だ、と僕は解釈している。ライトノベルのレーベルから出版されているものの、文体も内容もおよそいまはやりのラノベ風ではなく、子ども向けの救いが用意されているわけでもない。むしろ後述するように、頭のいい子なら、ここで提示された解決に苛立ちすら示すだろう。

この作品も『ヘヴン』と同じく、いじめが主題化されている。いじめっ子の名は日々希、いじめられっ子の名は遼介。そして主人公は、両者のクラスメートである水葉。日々希のいじめは、中学生といえども周囲も引いてしまうレベルで、遼介はその結果病院送り、不登校になっている。卒業を間近に控え、いじめが発覚したことで内申書に影響が出たクラスメートたちは、一様に「自分は悪くない」という態度をとりながら、なんとか卒業までの時期をやり過ごそうとしている。

そんな中、担任から遼介への届け物を頼まれた水葉は、彼が体を鍛え、日々希への復讐に燃えていることを知る。卒業式の日に乱入して日々希を殺し、クラスメートたち全員の人生をめちゃくちゃにしてやるのだという決意の遼介。それを聞いた水葉は、彼に協力し、日々希の動向を彼に報告することを約束するのだった。

この作品の登場人物のうち、水葉、日々希、遼介の三人以外は、いたって普通の中学生だ。無責任で、自己中心的で、独善的で、それゆえに他人を責めることを厭わない。なんとかクラスメートにうまくなじもうとしている水葉に詰め寄る同級生たちの描写は、中学生という生き物の残酷さを知っている人なら、誰もが胸に暗い思いを抱くほどリアルだ。

だが、そんな風に普通の中学生の話の中に収まっているかのように見える水葉ですら、というより水葉こそ、多くの点で「普通」ではない。それは彼女の世界観や体質の問題だったりするのだが、興味深いのは、水葉がそのことに対して、ある種の中二病的な感覚も含みつつ、内面の絶対的な領域を確保するという生き方を選択していることだ。そしてその、孤独のうちに培った壁の内側に抱えた業は、遼介や日々希とも通底していて、だからこそ本作は、この三者の物語だと言えるのである。

できる限りネタバレを避けながら書くと、本作の最大の魅力は、そうした「他者とは違う内面を抱えている」という自意識の少年少女たちが、それを克服し、卒業して大人になるのではなく、その内面を抱えたまま、欠落した者どうしのバランスで生きていけるように周囲の大人たちが取りはからうという点にある。内的な成長ではなく、中二病の社会からの「解決」が目指されているわけだ。大人の側から言うと、「お前らみたいなのは、どうせ大人になるなんて無理なんだから、壊れないように支え合って生きていけばいい」ということになるだろう。

むろん、その「支え合い」は、単に美しい絆のようなものを意味しているのではない。むしろ本作のラストで示されるいじめと自意識の問題に対する解決策は、あまりにも救いのないものだ。古谷実の作品が「自分が幸せになっているときには、誰かが不幸になっている」という構図を採用するのと比較すれば、ここでは「誰も幸せにならないが、これ以上不幸せになる人はいない」という、より陰鬱な、しかし安定した世界が描かれている。だからこそこのお話は、子どもの目線から見たとき、勘のいい子ほど、不快な感情を抱かせるのではないかと思うのだ。

成長することで希望を提示するときには、成長する以前が、否定と肯定の間で宙づりになるというジレンマが同時に生まれる。しかしそこで今以上の希望を諦めれば、誰も不幸にならない安定した結末が得られる。その結末は、誰をも救わないけれど、誰か(主人公)を幸せにするために世界に悪を認めるとか、世界の大儀のために、個人を歴史に翻弄される弱い存在と置くといったアンバランスを呼び込まずに済むのである。

中二病な子たちは、自分が聖痕を持った特別な存在であることを、救いのように求める。今日は熱があって学校を休めるといったレベルから、自分の世界観や価値観は特殊で、自分以外の理解者はいないんだといったものまで。そこで、「お前なんか特別じゃない、誰にだってそれはあるものなのだ」と、彼らに断念を迫る社会よりも、彼らが彼らの特別さへの自尊心を失わないまま大人になれる、あるいはそうなるように当の大人が取りはからう社会の方を、僕は肯定する。「お前は特別じゃない、だから独りじゃない、さあ手をつなごう」ではなく、「お前は特別だ、だから孤独だ、そしてだからこそ、世界はお前ひとりの力なんかじゃ動かないんだ」と言ってあげる方が、よっぽど正直なのではないか。

ストレンジボイス (ガガガ文庫)
江波 光則
小学館
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