共通善は希望たりうるか

最近、講義を含めいろんな場面で政治社会や民主主義について考える機会が増えて、どうしたものかと思っていた折に出版された、宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』を週末に読んだ。冒頭から面白いのは、「この本は、〈私〉という視点からデモクラシーを考える本です」と書いてあるのだが、その〈私〉に「わたし」とルビが振られていることだ。もちろん、「私」は「わたくし」と読むのだ、などと国語の先生みたいな突っ込みをしたいわけではない。そこに、この本のテーマが端的に表れているのだ。それはすなわち、公的な場面で自分を語る一人称としての「わたくし」ではなく、私的な一人称としての「わたし」が、「私」の内実になっており、それがデモクラシーの前提になっているのが、〈私〉時代なのだ、ということだ。

本書の前半は、なぜその〈私〉感覚が広がり、問題を生んでいるのかが論じられる。ここで著者は、社会学者が「個人化 Individualization」と呼ぶ出来事が、「否定的な個人化」へと結びついていることを指摘する。つまり、自己決定、個人の社会からの自律という出来事が、リスク社会においては、人の行為を容易に自己責任へと帰責させることになるというのだ。土井隆義の言葉を使えば、人々が「個性を煽られる」ことによって、むしろ平凡きわまりない自分を見つめ直さざるを得なくなることで、彼らの自己意識は常に、何かが欠けたものとして立ち現れてくることになるというわけだ。

むろん、こうした一連の説明には、様々な背景情報を読み取ることができる。まず、デモクラシーにおける「個人化」と聞いて普通に人が思い浮かべるのは、人々がますます自分の利害にしか関心がなくなり、わがままになることで、公共的な決定が衆愚政治へと引きずられてしまうということだろう。だからこそ、個人化に対抗するためには、一人一人が政治に関心を持ち、私利私欲を抑制しなければならない、と考えられる。

だが著者は、本書においてそもそもそうした立場をとらない。個人化は前提であり、そこから始めるしかないという。しかしそこには独特の困難がある。個人化は、人々に「オンリーワン」な存在としての自己の確立を求めるが、その結果、社会的な連帯の絆は途切れてしまうというのだ。なぜか。それは、社会が流動化し、これまで日本を支えてきた「仕切られた社会保障」と「閉じた共同体空間」内部での差異化を通じた平等意識の醸成が不可能になったからだ。

かつては、高校に進学した段階で似たようなレベルの子に輪切りされ、その中で一流大学、二流大学へとさらに輪切りされ、二流私大に進学すれば、そのレベルに見合った企業に就職でき、そこでそれなりの給料をもらって生活できる「はずだ」という期待が成り立っていた。その生活保障は、「どうせ自分たちは東大に行った連中とはレベルが違う」というコンプレックスと、「身の丈以上の望みは持たないから、そっとしておいてほしい」という自意識とのはざまで、かろうじて満足を得られるものだった。

だが雇用環境の悪化は、その「レベル」に応じた「身の丈」の壁をぐずぐずに溶解させる。以前なら東大卒の子が志望しなかったような企業にエントリーしてくる東大生が増えると、その「下」の子たちは、東大生との競争を強いられ、さらにレベルを下げて就活することになる。結果的にそうして玉突き状に「下」に押しやられた一番下の人たちが、社会から排除される。

やっかいなのは、それにもかかわらず、就活が「やりたいこと」を実現する活動であるとされていることと、「どこでもいいから早く決まってほしい」という学生たちの諦念を接ぎ木する論理や制度が存在しないことだ。結果的に、「個性」をあきらめて「どうせこんなもん」意識で就職したのに、その「身の丈」に応じた自意識・制度上の防護壁は存在せず、より「上」からやってきた、自身も不満を抱えている「できる子」との競争を強いられ、「なんでこんなに働かなきゃいけないんだろう」となるわけだ。

著者は、こうした個人化された社会ゆえの困難を、人々が「社会」との関係の中で自己を取り戻し、連帯のきっかけを取り戻し、そこからデモクラシーが再生するというシナリオで乗り越えようとする。著者がトクヴィル研究者であることを考えても、そこで想定されているのは、ネオ・トクヴィリズム的な「共通善」へと人々が差し向けられていくことに「希望」があるということだろう。

こうした考え方に反対はないけれど、社会のすべてのイシューがそうした下からのデモクラシーで決定プロセスに乗せられるということもないだろうとも思う。ただ、こうした共通善の構築や政治共同体の再生というアイディアの反対側に、また別の解決策が模索されていることも確かだ。つまり、そうした共通善は、個人の自由を抑圧するものであり、そのような理念については中立的な立場をとった上で、個人が自由に自らの善を選び取ることのできるサポート的な制度を導入すべしという、いわゆる「リバタリアン・パターナリズム」の立場だ。

両者の対立は、ある意味で80年代から90年代の「リベラリズム対コミュニタリアニズム」の変奏のようにも見える。人は共同体を離れて自らの善を発見できるか否かという点については、そりゃ無理だねってことで決着がついていると思うけれど、じゃあそうした自己意識を涵養する共同体を、誰が、どの程度まで守ればいいのか、という点については、まだ論争の行く先すら見えていない。共同体の維持を主眼に置く権威主義は反感を受けるとしても、参入・離脱の自由を認めてなお維持可能な共同体はあり得るのか、だとすればどのようなテクノロジーが必要かなど、議論すべきことは山のようにあるはずだ。

共通善を基礎に置いた政治の再生は、一見すると口当たりがいいけれど、ともすれば、様々な前提を隠蔽して、共同的な生活が可能な人々以外を排除する方向にも作用する。特に社会の基盤が流動化し、そこで前述したような自意識を人々が抱えるようになった現代では、共同体は「身の丈の生活を守る防護壁」として求められるし、それを(ゲーテッド・コミュニティのように)商品として提供する動きも強くなる。共通善が希望であるとするなら、それは、何を実現する希望なのか。デモクラシーと個人の狭間に具体的な何を置くかが、次の思考のステップになるのだろう。

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