操作可能なものの監視

ポストモダン社会では、多様性の擁護、というか、人々が個性を発揮するということと、監視社会化が同時に進行するという議論がある。様々な角度からそのことを論じることができるが、その手の話で最近面白かったのは、スティーブン・ベイカー『数字で世界を操る巨人たち』だろう。ここで論じられているのは、個人の行動履歴を数値として監視し、数学的にモデル化することで、個々人に完全にカスタマイズされたサービスが登場するという話なのだが、その背景にあるのは、マーケティング的な統計モデルの持つ問題だ。多変量解析による消費クラスターの析出というありふれた手法は、設計次第でなんとでも答えが出せるというだけでなく、マーケティングとして「使える」ものにするという意味でも、差異化が進む現代においては役立たずになる。なぜなら、最小の消費クラスターは常に「個人」になるからだ。

ここにはふたつの発想の転換を見て取ることができる。ひとつは、標本をある特徴を有したクラスターに「割って」いくのではなく、標本から数理モデルに合致する個人を「抽出する」――その場合のモデルも常に変動しうる――ということ。もうひとつは、そのモデルがあくまで暫定的であり、複数併存しうるものである以上、「個人」という分割不可能な個体としてではなく、場面に応じて分割可能な属性の集合として個人を扱うことができるということだ。その意味で「行動ターゲティング広告」といった呼称はとても示唆的だ。もはやターゲットは、個人ではなく行動なのだ。

こうしたありふれた話は、その範囲内で語られているときにはあまり気づかれないけれど、社会科学の研究のあり方そのものにも大きな影響を及ぼしていると思う。ポストモダン社会で監視が広がるぞ、というのなら、理論よりも実証が重んじられるようになるのは当然だし、そこで求められるものも、抽象化された数理モデルの構築か、ミクロなネットワークの分析か、マクロ変数を用いた政策立案になる。要するに、相対的であるとは言え短期的に操作可能で、結果が出せる変数のみが選択されることになる。

僕が考えているのは、新自由主義下の大学では、すぐに結果ばかり求められてけしからん、とかいう左派教師の言い分とはちょっと違う。「文化」や「社会意識」といった、言語依存的で、短期的に測定しにくい――というか短期的にはブレ幅が大きい――変数を元にした分析が忌避されるようになるのじゃないかということだ。おそらく統計数理研究所の「日本人の国民性調査」や、NHK放送文化研究所の「日本人の意識調査」や「国民生活時間調査」、および政府の各種意識調査(内閣府の「社会意識に関する世論調査」など)クラスでないと「使えない」扱いされるようになるのかもしれない。

これらの調査は、高度成長期からポスト高度成長期、不況期の現在に至るまでの通時的な比較が可能だという意味で有用だが、調査設計時の価値観を反映しているため、どうしても「戦後の標準モデルと現在の距離」を測定するものにしかなり得ない。多くの先進国で、このふたつを比較することは非常に重要になりつつあるので、しばらくはその意味は揺らがないだろうけれど、それは戦後社会が大きな「曲がり角」を経験したからであって、そのことは、調査設計時には分からなかったことなのだ。

見田宗介氏が主張するように、戦後モデルの中で設計された変数においては、社会変動は収束局面に向かいつつあるのかもしれない。他方でいくつかの情報理論は、近代の社会変動が収束するとともに、別の社会変動が立ち上がる可能性について示唆している。こうした変動の可能性を「妄想」と切って捨てられるかどうかは、文字通り長期的な観察によってしか判断され得ないのだが、変数として設計されない限り、それは常に「まだ確認できない→きっと妄想だよ」という話になってしまう。

むろん、情報通信関連の話、つまりネットがどうしたとかケータイがこうだとか、そういう項目じたいは追加されている。しかし検証されるべきなのは、そうした変化とともに生じているかもしれない、家族形態の多様化(通信環境の整備は、離れている家族の絆を強めるために、かえって家族意識を高めるかもしれない)や、雇用環境の変化(ケータイの普及と、流動的な雇用の広がりの間にはどの程度の関係があるか?)といった出来事であるはずだ。戦後モデルとの距離だけを意識していては、こうした場面で見られる変化も、個別領域の、短期的に解決が必要な事象である場合にのみ取り上げられるということになるだろう。

こうした設計を意識することは、国際調査を視野に入れた場合にも重要になる。一般的に国際調査では言語の違いによる変数設計の困難さがあり、共通化できない文化や社会意識についての比較はなかなか進まないことが多い。しかしそうした事情を差し引いても、いまの日本での情報通信環境を前提とした社会意識論は、一部のチームの研究を除けばドメスティックな視点に偏っていて、一般レベルでも、最先端の動向の比較くらいしか出てこない。カステルの「ミレニアム三部作」が、世界であれだけ引用されているのに未邦訳だったりするのも、その辺と関係するのだろうかと思う。

ともあれ、短期的に操作可能なものの監視が優先されるのは、様々な事情を加味すれば必然的な現象だ。とはいえ、それは結果的に、システム構築――政策であれ企業戦略であれ――に寄与する限りにおいて評価されることは言うまでもない。どんな変数であるにせよ、監視のために設計される変数は、監視する主体にとって望ましいシステム構築のために用いられる指標になるからだ。反システム運動ですら「オルター・グローバリゼーション」と言わなければならない現状では、監視と脱システムを両立するのは非常に困難であり、だからこそ「意義のある設計」にしか予算は下りない。こうした環境下では、ある種のセオリーを軽視することで、かえって「地道な調査」が行えなくなるのである。

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