資源の有限性と共同体

誰かの人生を支えるために自分の人生を犠牲にすることを、美しいと思う人もいるけれど、自分がやれと言われたらいやがる人が大半なんじゃないかと思う。そこに愛があればいいとか思っていても、いつまでたっても成功しないバンドマンを食わせてる彼女さんというありふれた構図にすら、僕らはちょっとした抵抗を感じる。なぜだろう。おそらくそれは、彼女さんに、彼を食わせることをやめたり、他の男を選んだりする自由意志があるはずだという、言い換えれば、彼女さんにも他の人生があるはずだという僕らの思いに由来する感情だ。

しかしまあ、実際にそういう人に接してみると、よく言えば健気、少し悪く言えば好きでやってるんじゃん、という人が多い。だから、心配しないで、なんてことも言う。そういう人たちの中には、自分の能力に限界を感じている人が少なからずいて、自分はいいから、誰かの夢を叶えることが自分の夢だなんて思っていたりもする。

こうやって書けば書くほど、僕らの中にあるリベラルな前提、つまり、人は誰も等しく自らの能力を見定め、それを伸ばしていくべきなのであって、それこそが人としてのよろこびなのだという思いが強くなる。だから心が軋む。なのに、結婚した女性が相手だと評価を反転させる人がたくさんいるから、この話は面白い。自分の人生の追求に対する優先度を下げ、夫や子どものために人生を捧げることが正しいと、何の関係もない他人の生き方に首を突っ込んででも「アドバイス」をしてあげたいという人に出会う機会は、そう少なくない。

それでもやっぱり、そうやって個人の自由を奪うのは不当なことであり、自分の人生を追求することが、男性には許されても女性には許されないのはけしからん、と、少なくとも建前上は言える。では、これが共同体になると?おそらくは子育て以上に女性、特に「嫁」に対する抑圧が強い共同体はたくさん存在しているのに、彼女たちを「解放」すべきだという主張は、あまり強くないように思える。

そもそもそうした非対称な規範が生まれたのは、自然の摂理でも何でもなくて、有限な資源を効率的に活用するためだった。農村では集団的な労働が中心だったから、その有限な資源の管理者、例えば村長や長男夫婦といった人たち以外は、使い捨ての労働力でしかなかった。そこでは子育てすらも、ムラの仕事だったのだ。

しかし産業社会においては、労働力は土地から切り離されたサラリーマンになり、またできる限り長時間、低賃金で働かせるのが効率的だ。人生の規範というものをムラの習俗から切り離し、消費へと接続するこのシステムは、有限な資源=給料の稼ぎ手として男性を、彼らの労働力と次世代の労働力の再生産、そして資源の管理者として女性を任命した。ここでは労働だけを任された男性は、退職して用済みになると管理者から罷免される「濡れ落ち葉」的な扱いを受けることもあったわけだ。

要するに、ムラや家族の共同体的な関係の背後には、有限な資源の管理者がおり、その人がいるおかげで共同体は成り立つが、その人が管理している限り、個人には共同体から離れる自由はない、という仕組みがあった。食い扶持を稼ぐ人ではなく、それを管理する人こそが共同体の中心であり、好きと嫌いとにかかわらず、その人の世話にならないと生きていけない仕組みこそが、共同体の本質だった(近代家族の場合は、稼ぎと管理を分業することで、相互に離れられない仕組みになっていた)。

こうした本質は、個人が好きあって家族を作るとか、地域社会は絆で結ばれるべきだといった、個人化された社会の前提と根本から矛盾する。家族をつなぎ止めるのはダンナしか十分な金を稼げないという事実であり、子はかすがいという責任問題であって、愛情でも何でもない。地域社会が必要なのは、絆があるからではなく、いやな連中とでも協力しない限り生きていけないからだ。

当然の如く、共同体のこうした側面は忌避の対象であり、だからこそ人は家族や共同体から逃避し、親密性によって結ばれる純粋な関係性だとか、再帰的に構築された地域社会だとかを称揚する。だがそれは、資源が無限にあって、それを利用して個人が自分の人生を自由に選択できるという、あり得ない想定の下でしか可能にならない。社会が悪かろうと何だろうと、教育もちゃんと受けていない女性がシングルマザーになって、一人で子供を育てようとすれば、取り得る選択肢は限られる。こういう人々には、「自分の人生は選びうるものなのだ」という思想は、単なる抑圧にしかならない。

個人としての僕は、それでも人は自分の人生を選ぶべきだし、それを可能にするために、最大限に能力を開発すべきだと思う。でも、この資源の有限性が共同体を作るという問題を解決しない限り、それは「選びうる人」のための議論でしかないという風にも思えてきた。男性は人生をあきらめてくれる女性に依存し、都会の人は人生をあきらめて共同体のために奉仕する農村・漁村の人々や、途上国の人々が作る資源に依存して生きている。そこに負担をアウトソースした上でしか、再帰的な共同体など作れないのなら、それはやはり不完全な社会構想であり、「俺も人生を選べないのだから、お前も人生を選ぶな」という、ある種の逆恨みと社会的な亀裂しか生まないのではないかと思うのだ。

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