ノンアルコールビールとターンテーブル

若者にモノが売れないと嘆く声が、昨年はあちこちから聞こえてきた。そこに無根拠な若者批判の匂いをかぎ取ったネットの人たちなんかは、バブル世代を基準にするなと反論したが、肝心の部分は分からないままだった。要するに、お金がないから消費しないだけで、ほんとは一回履いたスニーカーは二度と履かないみたいな生活がしたいと思っているのか、かつて欲しがられていたモノへの購買意欲そのものがないのか、ということだ。

この問題は実際には検証できないことで、それというのも、「かつての消費」というものは、「将来にわたるレギュラーな収入」によって支えられていた可能性が高く、宝くじで数千万円当たったからといって、そうしたレギュラー収入で購買意欲をかき立てられる商品にマインドが向かうとは考えられないからだ。消費というのは、消費するためのスキルや価値観を涵養する環境と一体で可能になるものだ。

「お金があったら消費するのか」という問いは、どういう風にお金があるのかまでを勘案に入れ、また消費するかしないかという経済学的な問題ではなく、「ウチの商品を買ってくれるか」という実質的な内容に踏み込んだ答えを求められる質問である以上、「分かりません」以外に誠実な答え方などありようもない。そしてもちろん、誠実な人間がいつも歓迎されるわけでもない。

とはいえ、消費財へと人を動機づける条件として、お金という経済学的条件、階層上昇志向などの社会学的条件を抜いて考えたとき、何があるのだろう。哲学的な条件として、ひとつ「嗜癖」ということを考えてみたい。つまり、何らかの非合理な理由によって、そのモノに魅せられてしまうということだ。というかマルクスに言わせれば貨幣経済は発達するほどにそうした物神性を帯びてくるわけだけれども。

嗜癖、つまり中毒(Addiction)といっても、そこには身体的なもの、心理的なものがあるし、心理的と言っても、モノやそれを使うことへの嗜癖なのか、人間関係への嗜癖(依存)なのか、様々な形態が考えられる。ただ、おおむね共通しているのは、たとえそれがよくないことだと分かっていたとしても止められないという点だろう。

嗜癖をもたらす要因になる物質は、それが社会活動を成り立たなくさせるという理由から、権力による規制の対象になる。一方でそれらは、多くの人を惹きつけてやまないことから、権力による独占と限定的な供給という形で制度化されることもある。伝統社会であれば、平時には呪術師だけが薬物の使用を許されるが、祭礼の時には男子全員が薬物を使用する、ということが考えられるだろう。近代社会では、かつてのたばこや塩のように専売制度を採るとか、買える年齢や販売できる場所に規制を設けるといったやり方が考えられる。

つまり、嗜癖をもたらす物質は、危険だからといって撲滅されるわけではなく、権力による管理、特に近代社会においては制度化された管理の下に置かれることで相変わらず存在し続ける。その背景には、それらが危険であるからこそ欲望の対象となり、それゆえ撲滅を目指してヤミ流通を発達させるくらいなら、いっそ管理下に置いて存続させた方がマシだ、ということになってきた歴史があるのだろう。

ただ、その管理の仕方には少し注意を払う必要がある。つまりここでいう「管理」とは、「危険性を管理すること」に他ならないのだ。たとえば、タバコという薬物を全面的に禁止するのではなく、危険性の源泉となる物質、要はニコチンなどの量に制限をかけ、「ある程度」の危険にとどめておくのだ。ここで重要なのは、危険性が完全に喪失すると、その物質の魅力が失われるかどうかという点だ。

スラヴォイ・ジジェクの言う「カフェイン抜きのコーヒー」や「脂肪抜きのクリーム」は、まさに「危険」な要素を取り払ってしまうことで、安全に欲望を追求することを消費者に約束する。それは資本主義がその嗜癖性を欺瞞的に維持しながら存続するための苦肉の策だ、と彼なら言うのかもしれない。ただ、こうした商品が成立する条件は、もっと社会学的なものであるはずだ。

ノンアルコールビールという商品は、本物のビールが売れなくなるほどに飲まれたらしい。しかし不思議な話だ。ビールを飲みたくないなら、甘いお酒でもソフトドリンクでもいいはずなのに、なぜわざわざノンアルコールビールを飲むのか?その理由は、こういう風に考えられなければならない。つまりノンアルコールビールは「飲みたくても飲めない」人のための商品なのだと。

ビールを飲みたくても飲めない状況とはどういうものか。たとえば、団体で外食をしているが、運転できるのは自分だけだ、ということが考えられる。このとき、「飲みたい」という欲求は心理的なものだが、「飲めない」というのは社会的な機制だ。おそらくそのドライバーは、ビールは飲みたいが、飲酒運転にまつわる多くの事故報道や、免許の更新の時に見せられる啓発ビデオの内容などを思い出して「飲めない」と判断する。そのジレンマを解消する商品が、ノンアルコールビールだというわけだ。

同じことは、電子タバコについても言える。電子タバコは、多くの人が指摘するように禁煙グッズというよりは、タバコの代用品と考えるべきものだ。ここにも「タバコを吸いたい」という欲望と、公共空間においては受動喫煙の問題があるのでタバコを吸ってはならないという社会的な禁止とのジレンマがある。そういえば今日電車の中で堂々と電子タバコをくわえている人がいて驚いたけど、もしかしたら喫煙者の欲望とは、タバコを吸うことよりも、常に何かをくわえていたいということなのかもしれない。

一方で、こうした「危険」や、あるいは「リスク」と呼んだ方がいい要素を管理し、排除する商品の中でも、少し毛色の違うものがある。それがデジタルターンテーブルだ。昨年、TechnicsのSL-1200というアナログターンテーブルが生産中止になったというニュースが、世界中のDJを騒がせた。少なくともCDによるDJが普及する前は、間違いなくターンテーブルのデファクトスタンダードはSL-1200だったからだ。

CDによるDJが主流になった大きな理由は、アナログレコードがリスキーなモノだからだ。針は飛ぶし、曲がるし、削れる。モノとしては有限で、スクラッチなんかしようものならその寿命はさらに縮まる。自宅のPCでCDが焼けるようになったこともあって、わざわざアナログでDJする人は次第に減っていった。だが、アナログにはアナログのよさというものがあって、それはたとえば直感的に頭出しができるだとか、手で押さえればポーズできるだとか、そういうことだ。

TechnicsのデジタルターンテーブルDZ1200は、こうしたアナログの「よさ」をデジタルに再現するという点において、他の類似商品にはないアドバンテージを持っている。もはやレコードは回らないにもかかわらず、SL-1200と同じモーターを搭載し、ターンテーブルを操作するアナログインターフェイスに仕立て上げたのだ。

DZ1200が「ノンアルコールビール」と異なるのは、後者が禁止と欲望の間の折り合いを付けるために、リスク=嗜癖の対象となっている本質部分を換骨奪胎してしまった商品であるのに対して、うまくその本質部分だけを抽出したモノであるからだ。むろん、針飛びするかもしれないからアナログには味があるという人もいるだろうけど、「あの手になじむSL-1200の感触」だって十分にモノとしての魅力をたたえていたのだ。

モノがモノとしての魅力を持つということは、ある種の反社会性や危うさのような要素と関係した出来事である。だからこそその危うさは常に管理や規制の対象になるのだけれど、規制に妥協しながら消費者の欲望に応えようとするとき、そこから出てくるのはノンアルコールビールのような、仕方なく我慢して消費する代用品のような商品だ。アナログDJだって、ヴァイナルの持つ面倒さを管理可能なものにしようとすれば、デジタル化して、直系8センチくらいの円盤ふたつをPCにつないで操作するようなインターフェイスにする方が合理的なのかもしれない。

でもそこでわざわざ、アナログターンテーブルの操作感だけをインターフェイスとして商品化することで、かえってモノの魅力を増したケースが、DZ1200なのだと言える。モノが売れないと技術者が嘆くとき、そこで目指されている技術的な努力が、ノンアルコールビール的な商品を作るためのものなのか、デジタルターンテーブルを作るための努力なのか。そういう観点から見返してみることがあってもいいのかもしれない。

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