「自粛ムード」の心理

Twitterに「不謹慎」という非難が飛び交う理由について書いたのがきっかけで、海外のメディアからいくつか取材の依頼をいただいた。それ自体はありがたいのだけれど、どうしても「自粛=日本独自の現象」という先入観で取材をされることや、僕の語学力の問題もあって、なかなかきちんとした形では答えられなかったところもある。さしあたりここでは、「自粛」を一般的な心理状態であると仮定した上で、そうした感情や、それが生み出す弊害をどう回避するかについて考えてみたい。

1.自粛と萎縮

まず、「自粛」という言葉について。宇多田ヒカルさんも「自粛を要請ってそれ他粛じゃね?」とつぶやいてたけど、じっさい僕らが直面している「自粛」なるものは、なんとなくパーッとやる気になれないという「自粛」と、ここで盛り上がるのは批判を招くのではないかという不安からくる「萎縮」のふたつから成り立っている。むろん「自粛を要請」されたところで、それに従うかどうかはお任せしますよ、ということだから「自粛」なのだし、実際に批判を受ける前から自らの判断で何かを止めてしてしまうことを「萎縮」というわけだから、このふたつは簡単に切り分けることができないのだけれども。

ただ、いわゆる「自粛ムード」だとか「過剰な自粛」だとか言われて批判されている昨今の風潮は、「自分としては自粛するつもりはないのだけど、自粛しないことで批判を受けるのではないかと萎縮していること」を示しているのは確かだ。実際、テレビ東京がアニメの放送を再開した際には、局の方に抗議が来たとも聞くから、その不安も故のないものとは言えない。それでも多くの場合、抗議がくる前に中止を決定するわけだから、問題は「過剰な自粛」ではなくて、「過剰な萎縮」の方にあると考えるべきだろう。

過剰な萎縮が招く経済活動の停滞を避けることを目標にするならば、自粛せよという非難がどのような動機から生じるのかということ、つまり非難する人の問題と、その非難を先回りして萎縮する側の問題を切り分けた上で、前者の人びとの動機を別の方向に向けさせ、後者の人びとに過剰に心配する必要はないのだということを示すことが必要になる。そのためには、前者、後者をともに「日本文化に特有の問題」と切って捨てるのではなく、ある程度普遍的なメカニズムの中で生じた現象だと仮定して対策を考えた方がよい。

2.罪悪感が非難を生む

Twitterで僕が述べたのは、R. K. マートンの『大衆説得』における「献身の三角形」というモデルを援用した仮説だった。ごく簡単にまとめると、震災以後、被災地の状況は様々なメディアのチャネルを通して、被災者ではない人びとにも届けられている。さらに原発事故のような、専門性が高いにもかかわらずハイリスクな出来事が長く続くことで、多くの人が「自分ではどうしようもない悲惨な出来事」に直面しているという感覚を強く抱くようになった。この「何かしたいのに何もできない」というフラストレーションが、「自分より何もしていないように見受けられる人びと」へと向けられるのが、「不謹慎」という非難なのではないかということだ。

ただこの説明は、マートンの説明(自分は貢献できていないという不安から、戦時公債を追加で購入してしまう)を逆転させただけであり、なぜそれが「非難」へと向かうのかという点については少し曖昧になっている。そこでもう少しだけ補足してみよう。

僕の説明だと問題になるのは、たとえばメディアによってフラストレーションが喚起されるなら、なぜ日本よりも(良くも悪くも)生々しく、またときに扇情的な報道が行われた海外においては非難や自粛の動きがほとんど見られないのかというところだ。日本でのみこうした現象が見受けられるということは、やはりそこには日本の文化特有の問題があるのではないか?

この点に対する反論として、たとえば2001年の米国同時多発テロの際にも、全米のラジオ局で複数の曲が放送禁止になったじゃないか、ということを挙げることもできよう。ただそれよりも僕としては、今回の震災に関してメディアが与えるフラストレーションは、特に日本のある種の層にとって強いものになっているのではないかという仮説の方が説得力がある気がする。

震災で注目を集めた概念に「生存者罪悪感(Survivor’s Guilt)」というものがある。大きな災害などで生き残ってしまった側が持つ罪悪感で、PTSDを引き起こす可能性があることから、適切なケアが必要であるとされている。なぜ彼らは罪悪感を抱くのか。それは、亡くなってしまった人たちは「何の罪もない」人であり、自分と相手の生死を分かったその境界線は、偶然引かれたものに過ぎないという風に思えるからだ。死ぬほどの罪を背負っていたわけでもないのに死んでしまった人と比べれば、自分という存在は生きているだけで何らかの罪悪を抱えている、という関係性が、生存者たちを苦しめるのである。

さて、その「罪もない」人びとに対する罪悪感を、私たちがもっとも強く感じるのはどういう人だろう。おそらく、自分と境遇の近い人ということになるのではないだろうか。似たような年齢で、似たような立場で、しかし向こうは亡くなってしまったのに自分はのうのうと生きていると思われるとき、罪悪感はもっとも強くなる。実は、震災後にマスメディアによって広められた「犠牲者」のイメージこそ、多くの人びとにとって「自分と大して違わない」、つまり「普通」の人びと、というものだった。むろんこの場合の「普通」は、日常的にテレビを見ている層で、かつターゲットを絞りやすい対象、つまり、子どもを抱えた親だとか、高齢者だとかにとっての「普通」なのだが。

ともあれ、主としてこうした人びとに対してマスメディアの報道は強いフラストレーションを引き起こすものになる。逆にいえば、外国の人びとは日本の報道に「自分たちと同じ」という感覚を惹起される可能性が低いので、そこまでのフラストレーションにはならないのではないか(逆に原発問題が非常にセンシティブに作用する西ヨーロッパ諸国、とりわけフランスやドイツで反原発運動が盛り上がった理由も、似た現象がかの国で起きたと考えれば説明がつく)。

「普通」の人びとが被った犠牲というマスメディアのメッセージは、彼らに共感する人びとの間にある種の生存者罪悪感に近い感覚を広めることになったのではないか。

3.共感不可能性と攻撃性

生存者罪悪感の中でも、直接被災者と関係がなかったり、被災地から遠く離れていたりする人が感じ取る罪悪感は、様々な意味でやっかいだ。まずもって彼らは被災者でも犠牲者でもない。ただその人たちと似た境遇だと感じているだけの存在なのだ。だから、自分のフラストレーションを理解してもらおうにも、同じ非被災者からは「でも別におまえが被災者を代表して傷ついたり怒ったりする正当性ないじゃん」と言われ、実際、自分でも被災者の方々には申し訳ないという気持ちがあるわけだから、被災者にもその感情(「あなたの気持ちはよく分かる」)を吐露できない。つまり彼らは、誰からも共感を得られないような罪悪感を抱えてしまったのだ。

僕自身、秋葉原連続殺傷事件の折にそうした感覚に襲われ、非常に強いストレスを感じることになった経験から、こうした人びとの罪悪感は、似たような感覚を抱えた人どうしでざっくばらんに話をしてみることからしか解消されないと感じている。しかしそうした回路を持ち得ない人びとにとっては、被災者に対する申し訳なさよりも、被災者に共感を感じる自分を理解してくれない周囲との温度差の方が、より強いストレスになるだろう。結果的にそのストレスは、彼らに対する攻撃性として現れてくる。

その攻撃性の一例が、おそらく「不謹慎」なものに対する非難であり、「自粛せよ」という声なのではないか。この点を押さえることで、「自粛ムード」というものが、「喪に服する」という日本の宗教的伝統に由来しているのだという、問題のある説明を回避できる。喪に服すというのはあくまで自分自身の行為であって、喪に服さない人びとを責めるための理屈ではない。あまり好きな例ではないけれど、未亡人というのは周囲が夫亡き後の新しい人生を生きることを勧めてきたとしても、それに逆らって夫の死に殉じ続けることで喪の意志を表明する。それを踏まえれば、「自分と同じように喪に服せ」と人に命じるのは、喪に服すという行為の尊さ(だと考えられているもの)を台無しにしているといえないか。

むしろ自粛を求める非難の声は、社会心理学的に普遍的なメカニズムによって引き起こされたものであり、それゆえメディア社会の問題や災害時の報道のあり方としてとらえることが可能なものだと見なした方がよい。そうすることで、何もできないもどかしさ故に攻撃性を発露している人びとに対する「対処」方法について考えることができるようになるからだ。

4.「不謹慎を許せない人たち」をどうするか

まずもって重要なのは、「不謹慎を許せない人たち」の攻撃性は、彼らが感じているフラストレーションを可能な限り倫理的に解消するために生じているのであって、たとえばより上位の価値による抑圧(日本の経済を停滞させてはならない)とか、彼らの行為がはらむ倫理的な問題の指摘(おまえの言い方はキツすぎる)では昇華されない、むしろ火に油を注ぐ結果になると思われることだ。もっとも有効なのは、似たような罪悪感を抱える人どうしが話し合いながら、自分たちがとることのできる適切な手段について考えられるようにすることなのだが、それ以外の人にもできることはある。

まず、余裕があるならば黙って話を聞く、というのがあるだろう。こうしたケースでの心理的な攻撃性は、自分でも理屈が通らないことを自覚していたり、時間がたつとなぜそんな気持ちになったのか分からなくなることが多い。話を聞いているうちに、相手も少し落ち着いてきて、冷静に話ができるようになるかもしれない。その上で、Twitterなんかでも書いたように、その人にとって本当の意味で貢献できることについて考えることも、意味があるだろう。

相手と自分が対等な関係になく、たとえばこちらが組織として「不謹慎だ」というクレームに対処しなければならない場合、ただ話を聞くだけでは済まないこともある。こういうケースは現場の人たちが詳しいだろうけれど、攻撃性を昇華するためには「無理が通った」という気になることが大事だ(「おまえじゃ話にならん!上のものを出せ!」)。一定程度の譲歩は、相手と自分の立場を対等に近づけ、相手の理不尽さについて自覚してもらうきっかけを生むかもしれない。

もしかすると、自分自身でも「不謹慎」を許せないとまではいかなくても、ぱーっと盛り上がることにある種の罪悪感を感じているかもしれない。そういう人は、盛り上がることと被災地のための貢献を両立させるような手段を考えてみるのもいいだろう。日本リサーチ総合研究所のレポートでも述べられているが、「コーズ・マーケティング」と呼ばれる、消費行動と社会貢献を両立するようなプログラムもすでにいくつかスタートしているし、地域の祭りで義援金を集めることだってできる。積極的な行動が苦手な人には、各企業の震災に対する取り組みを調べたり、まとめページを作ったり、TwitterでRTしたりしてみてはどうだろうか。

5.この文章の読み方

と長々と書き連ねてみたものの、いまだに悩ましい部分はある。そもそもこのエントリは取材などで喋ったことを補足するために考えていたものなのだけれど、あれこれ調べたり迷ったりしているうちに時間がたってしまい、当初とは少し状況が変わってしまったところもある。また、先行研究などから示される典型的なパターンが当てはまるという前提で話を進めているから、ここでの分析が当てはまらないケースもたくさんあるだろうし、もっとスマートな説明の仕方もあったかもしれない。

なので、ここに書いた話は「役に立つのならば役立てる」という読み方しかおすすめできない。普通の言葉を使えば「参考資料」だ。新しい状況が発生したり、考え方が変わったりすれば、またここで何かを書くこともあるかもしれないけれど、現段階で考えられるのはこのくらいということで。

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