「みんな知っていること」

雑記

世の中には、色んな事情で「明るみに出ないこと」というものがある。たとえば、不正に関わることだ。不正というのは悪いことだから、暴かれない限りまずおおっぴらにされることはない。だが不正が起きるのにもそれなりの理由があって、気がついたらその不正を前提に行動しないといけなくなるなんてこともある。「談合」なんてのはその一例だろう。

明るみに出ない出来事とは、要するに「公式的には事実でないが、非公式には事実である」ということだ。その存在を誰も認めることはないけど、ほんとうにそれが事実でないかのように振る舞うとバカを見るので、非公式な事実に基づいた行動が求められるようになるのだ。

そして大抵の場合、こうした非公式な事実は、それがあることを知っている人間には有利に働くか、あるいは知らないと損をするという性質をもつ。だから非公式な事実は一部の人によって独占されるのだけど、独り占めしすぎると、その恩恵にあずかれない人によって非公式な事実を暴露されてしまうので、少しずつ人々の知るところになる。むろん非公式な形で。最終的にはそれは、途上国で横行する賄賂のように、「みんな知っていることだけど、公式には認められない」というものになっていくのだ。

さて、ここでその非公式な事実を知っていながら、同時にその恩恵にはあずかれない人というのを想定してみる。その人が排除される理由はいろいろ考えられるけど、それはまあいい。問題は、そこで彼がどういう行動を採るかだ。まずはその事実を明るみに出すことを考えるだろう。だがやっかいなことに、人々はそれが明るみにされないことで恩恵を受けているわけだから、どうやったってそれを認めることはないし、隠蔽しようとするだろう。

そもそもが非公式な事実は非公式な手段によって維持されているわけだから、それを明るみに出すために公式的な手段を用いても効果は限られる。だから非公式な事実を明らかにするためには、公式的なルールを逸脱して、多少強引な手段に訴えてでも改革に乗り出さなければならない、ということになる。

ではさらに、そうした彼の手法を外から見ている人にとってはどうだろう。ここで問題になるのはその人が非公式な事実を知っている「みんな」の中に入っているかどうかだ。またその人がインサイダーであったとして、さらにその恩恵を受けられるかどうかという区別もある。すなわち

(1) インサイダーであり、かつ非公式な事実の恩恵を受ける人
(2) インサイダーであるが、非公式な事実の恩恵を受けられない人
(3) 非公式な事実の存在を知らないアウトサイダー

の三者が想定されるのだ(実際にはアウトサイダーなんだけど似たような仕組みの中にいて(1)の人に共感的な人というのもいるのだけど、ここでは(1)に含めることにする)。で、(1)の人たちは、強引に非公式な事実を明らかにしようとしているその人(めんどいので(0)としよう)を批判しなければならない。その際に用いられるのは、その手法が通常のルールから逸脱しているという点だ。もちろん(0)はそんなことは分かっているのだけど、(1)の非公式な事実を明らかにするためには、それもやむを得ないという立場をとる。

でも僕の関心は実は(0)と(1)の対立にはない。いろいろ事情を汲めばそこにはどちらかに理があるのだろうけど、僕が興味があるのは、むしろ両者の対立のギャラリーとしての(2)と(3)、その間にある断絶だ。

おそらく(2)の人々は、(3)の人たちが「いくらなんでも(0)のようなやり方はまずいんじゃないか」と思うことに対して、「それはあなたが実態を知らないからだ」と感じるだろう。なぜならその実態=非公式な事実こそ、インサイダーにとっては「みんな知っていること」であり、それを知っていることはすなわち、(0)の非公式な手段に同意する条件になっているからだ。

ここで面白いのは、非公式な事実の存在を明るみに出すためには、同様に非公式な手段を必要とすると考えられている点だ。非公式な事実とは、タルコット・パーソンズのパターン変数で言えば個別主義的、属性本位的、限定性に関わる行為から生じている。こうした非公式な慣行を改めるにはむしろ透明化されたルールの徹底こそが必要なのに、そういった立場からの批判は「分かってない人」扱いされる。そこには、現行のものとはまた別の限定性が生じているのだ。

もちろん、現実にはルールの透明化の前に強硬手段が必要な場合もある。だがそういった手段は、透明化されたルールを遵守させるインセンティブそのものを奪う可能性もあるわけだ。このジレンマを解こうとすれば、おそらく必要になるのは、非公式な手段を用いて既存の慣行を改める人と、透明化されたルールを設定して遵守させる人を分けることだろう。要するに、「ぶっ壊す」人が出てきて非公式な事実をあらかた明るみに出した後でその立場を降り、ルールを作り直す人が新たに選出されるということだ。

そんなことができるのか、というと微妙ではあるのだけど、非公式な事実によって支えられていた権益を再分配しようとすれば、そこには何らかの正統性の担保は欠かせない。ぶっ壊す人に従うかどうかは「みんな知っていること」の内側にいて、そのやり口に同意するかどうかにかかっているという状況では、ルールの作り直しの後におこぼれにあずかるために尻尾を振る人々が続出し、再び不透明な再分配が生じる可能性がある。

「既得権批判」みたいなものについてぼんやり考えていた頃、不思議だったのは、「ぶっ壊す」ことに賛成した人々が、ルールの作り直しの後に来るはずだった公平な世界には住むことができないという事態が、割と何度も何度も繰り返されているということだった。でもそれは要するにこういうことなんだろう。ぶっ壊す人間が、自分以外の人間にも有利なルールを作る人間になるとは限らない、と。

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