「盛られた」現実

とある仕事で、20代の消費者インサイトを探るためのインタビューの分析みたいなことをしていたとき、こんなことを訊かれた。

「この人たち、どうしてこんなに『素になれること』にこだわるんでしょうね?」

実際、家族や地元の友達といるときに「素になれる」と感じるという話は、当たり前のようでありながら、そこには一種独特な言葉のニュアンスというものがある。それは、「素でない状態」をどう表現するかということと関わっている。素=「リラックス」と考えれば、素でないというのは緊張状態だし、「本当の自分」と考えれば、その逆は演じている嘘の自分ということになる。だけど「素でいられる」というのは、そういう状態とは少し違うんじゃないかと思う。

結論からいうと、「素であること」の反対は「盛っていること」だと思う。「盛る」という言葉もまた微妙なニュアンスをはらんでいるけど、おおむね(1)普通よりも誇張して表現すること(例:就活で話を盛る)、(2)本来の自分を包み隠すこと(例:この写メ超盛れてる、サギ写だよね!)、(3)「気合い」を入れること(例:今日はオールだからメイク盛ってきた!)という感じで使われているだろう。

要するに「盛る」とは、人前に出るための自己演出・自己呈示を表す言葉だ。それは必ずしも人から見られるものであるとは限らない(勝負下着など)が、本人にとっては自分のアイデンティティの感覚を確かなものにするための重要な振る舞いなのだ。そのため、「素でいられる」とは、逆に自己演出を意図的に解除したり、あるいはそうした演出を超えて自分を理解されたりする状態のことを指していると考えられる。

社会学的には、この種の自己演出・自己呈示は、一般的な人間の行動パターンであると理解されている。だから「盛ること」自体は新しいことでもなんでもない。問題は、なぜ「素でいられること=盛らなくて済むこと」へのこだわりが見られるようになったのかということだ。

ここで一足飛びに、「最近の若者はSNSで友だちとつながるとか、いろいろ大変だからじゃない?」みたいな話にしたくなるのだけど、話はもう少し大きい。そもそも自己呈示とは、自分が自分を何者だと見せるかということであり、自分とは何かという感覚と強く関係している。自分をどう定義するかということは、どのような社会に生きているかによっても大きく変わるだろう。

特に若者研究の中では、これは「自分らしさ」へのこだわりの問題としてよく論じられる。高野悦子『二十歳の原点』に見られるように、かつて「自分」を規定する要因とは「社会との関係」だった。だが、社会が複雑化し、対峙する社会の姿が不透明であることが明らかになってくると、自分とは「自分が自分らしいと思うもの」という再帰的な存在として立ち現れることになる。

この「自分が考える自分らしさ」は、通常は他者との差異化によって獲得される。ある時期までは、この差異化戦略はおおむね消費のことを指していた。あいつは○○のブランドだから自分は××、おとなりの車はどこそこのだけどうちは、といったように。だが景気の低迷もあって消費自体が沈滞し、さらにそこで差異(および差異化という振る舞い)そのものも陳腐化すると、「自分らしさ」の得難さが前景化してくる。

消費で差異化できない以上はコミュニケーションによって差異化をはかるしかない、というのが、おそらく現代の傾向なのだと思う。そこで「盛る」という自己演出が重要になってくる。つまり「盛る」とは、自分が何者であるかを自覚し、呈示するためのコミュニケーション戦略なのだ。

それゆえ、盛ることは単純に「ウソ」をついているというのとは違う。例えば就職活動の苦しさにも色んなものがあるけど、そのひとつに「盛れないこと」があるんじゃないか、と思う。髪色やファッション、コミュニケーションのスタイルで盛って他者との差異化をはかってきた学生たちにとって、それを強制的に引き剥がされ、均質化された素の状態で勝負することが、大きなストレスになっている。というのも、「盛った自分」と「素の自分」という二分法の世界で生きてきた彼らにとって「『素の自分』を盛る」という振る舞いは、端的に意味がわからない、ウソをつくということでしかないからだ。

だからこそ、祈られる(選考に漏れる)ことは「素の自分そのもの」を否定される感覚を生むし、逆に採用担当の「素のあなたを認めています」というメッセージにころっとほだされてしまったりするということも起こるのだけど、じゃあこの話、前のエントリから続いてる話とはどう関わるのか?

ポイントはふたつ。ひとつは、盛るという行為が他者への自己呈示を通じた自分らしさの表現になっているために、ソーシャルメディアなどでも「盛った」コミュニケーションが行われるということ。もうひとつは、「盛る」というのは「よそいき」とは少し違うので、プライベートなことがらであっても、盛れていればシェア(≒自慢)の対象になるということだ。

まず、ソーシャルメディアの話。盛るという観点からすれば、そこで行われるのは、一方では飾らない心情の吐露なのだけど、他方に、「盛ること」を通じて他者から承認されたり、承認を要求している「盛った」投稿に対して反応したりという、「盛りあい」のコミュニケーションがある。彼らはこうした振る舞いを通じて、多くの友人候補の中から、そうした自己演出を過剰に意識しなくても素でいられる相手を探しだそうとするのだ。

というのも、そもそも友人関係そのものが、他人の中から徐々に友情を育むというよりは、最初に広く浅く連絡先を交換して(つながって)おいて、そこからより深い関係に移行できる人をスクリーニングする、要するに「足し算の関係」から「引き算の関係」になっているからだ。こうした関係の中で「引かれない」(引き算の対象にならないという意味でもあるし、そのためにドン引きされないという意味でもある)ためには、適切な範囲で盛り、また適切に反応しなければならないというわけだ。

さて、そのとき適切に盛られたコミュニケーションとは何か。それはたとえば、その人が生きている現実を少しだけ演出したもの、「こんなのありえなくない?でもやっちゃった!」みたいなネタだろう。その中には、冷蔵庫に入るといったバイト先でのいたずらも含まれるけど、もっとカジュアルなものだってある。というか、なぜあれほどネット上にキスプリがあふれているのか、なぜ誰も疑問に思わないのだろう?

要するに、以前の感覚であれば秘密の出来事、プライベートな出来事とされるものでも、「盛った」ものである以上は完全に秘密ではないし、むしろ内輪に向けて「すごくない?」と発信可能なものになる。学生なんかがLINEのグループチャットのログとか恋人とのやりとりとかを平気で僕に見せてきたり、ネットに公開していたりするのを見るたびに、ああこの子たちにとってこれはプライベートな出来事だけど、同時にうまく盛れた現実なのだなと思うのだけど、多分この感覚が自然な世代が、ソーシャルメディアにノーガードでいろんな情報を投稿している。

もちろんこの話は、「僕ならこう見るよ」という程度のもので、実際に問題になってしまうような投稿をする子たちになんて言えばいいのかとか、そもそもこういう考え方が当てはまる人ってどのくらいいるのよとか、その手の話をすっ飛ばしている。あえて踏み込めば、海外のようにいじめやレイプの動画をシェアするくらいなら、自爆ネタで炎上するほうがなんぼかマシじゃない?という優しさのようなものを感じないでもないので、そんな責めなくても、とは思うかな。

以下は告知。このエントリにも出てきた自己呈示やソーシャルメディア上でのコミュニケーションについて、そこそこ学術的な裏付けをもった分析を書いた本が月末に出ます。また東京・五反田のゲンロンカフェでは、その本の内容を踏まえたレクチャーも行われます。第一回目はゲストに藤村龍至さんをお迎えしての対談が8月23日の夜に開催です。ご都合の付く方はぜひ。

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