うろ覚えの”J”ポップ時評 第2回(from『エクス・ポ』第一期)

第02回:「愛と生殖と公共圏」

うろ覚えでしかない過去の出来事が、現在の私を公定するための重要な資源として用いられる。そのとき「現在」は、常に過去を総括した「終わり」の瞬間として立ち現れているのではないか、というのが、前回で僕が提示したことでした。

しかしながらその「終わりの感覚」は同時に、それ自体として次の瞬間の「終わり」をもたらすためのリソースになってしまうというジレンマも持っています。「これが私の運命の人!」と盛り上がったのもつかの間、「っていう風に思っていたあの頃の私は……」といった具合に、「終わり」はいつも「過去」へと送られてしまう性質を持っているのでした。

それゆえ、この「終わり」感覚は、端から見るといつまでも同じことを繰り返して、盛り上がったり盛り下がったりしているように見えてしまいます。連載の第一回では、その例としてケータイ小説や湘南乃風などを挙げましたが、こうしたベタな感覚を、より再帰的に物語構造の中に取り込もうという傾向は、マンガやゲームの中にも見られるのではないかと僕は考えています。例えば『CROSS†CHANNEL』や『ひぐらしのなく頃に』といったゲームに見られる「同じパターンの無限ループを通じて正しい選択肢を探し当てる」というモチーフの頻出は、「終わりしかない日常」の徹底を通じた、「終わり」感覚からの脱出として理解することもできそうです。

この種の作品については、連載の後半で再び言及することになりますが、その話につなげるため、もうしばらく「終わりしかない日常」における時間感覚について考えてみたいと思います。僕が特に問題にしたいのは、こうした時間感覚の上で、「成熟」がどのように理解されているのかということです。

成熟というものを一般に考えてみるとき、現代ではそこにおよそ二つのモデルを見いだすことができるのではないかと思います。ひとつは、成熟とはある段階において到達する「点」のようなものであり、そこに辿り着いて以後は「成熟した存在である」というモデル。もうひとつは、成熟を不断の能力開発のプロセスであると捉え、成熟し続ける姿勢こそを評価するという「線」のモデルです。

この二つは対立するものではなく、僕たちの「成熟」観の中では、一体のものとして捉えられています。つまり、ある点に到達したところで感じられた「成熟」が、より先の視点から見ると、現在の成熟のためのプロセスだった、と理解されるようなものです。大澤真幸が近代の時間感覚として、ヴェーバーを引きながら言う「追い越した視点」と「追い着かない視点」の往復運動と、ほぼ近似のものと捉えてもらって構いません。
近代化の進展は、成熟の到達点を非自明化し、個人化するというのが社会学の基本テーゼです。つまり、誰もが目指すべき「成熟」のモデルが失効し、代わって「あなたがなりたいと思う大人になりなさい」という規範が前景化するのが、僕たちの生きている時代ということになります。

ところが、こうした成熟モデルの個人化は、成熟に関する困難の質をも変化させてしまいます。到達点が明確であった時代には、成熟の困難とは、そこに辿り着けるかどうかということでしたから、たとえ経済的・物理的な困難を抱えていても、さしあたり「子供時代」を抜け出すという決断ができるかどうかという点に求められました。

ですが現在では、そもそも辿り着きたい点を自己決定しなければいけないわけです。そうすると重要になるのは、その決定を下せるかどうかということ以上に、決定を下しうる環境にあるかないかということになります。弁護士になろうと自己決定し、そのように振る舞うことが、そもそも弁護士という職業の存在を知っていることを前提にするように、「立派な大人」になろうと思っても、その「立派な大人」像は、自分が知りうるリソースの中から構築しなければ生まれようがない。近年のあからさまな「富裕層向けマーケット言説」における、社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)の礼賛は、人々が「自己決定の前提になるのは環境」だということを、肌で感じ取っていることの表れだと思います。

では、そうしたリソースに恵まれない人々はどうするのか。そこで生じるのは、生活モデルの一種の「保守化」だと考えられます。すなわち、人生の指針を自己決定しなければならないから、それを可能にする環境的リソースが必要になる。それならいっそのこと、成熟のモデルを短絡化し、可能な限り「安全牌」を選べるようにしたい、という欲求が出てくるのです。

おそらくその欲求は、現在では、「正社員」と「結婚」と「出産」の三位一体として捉えられています。つまり、正規雇用に就き、その稼ぎで戦後民主主義的な核家族を養っていくということが、成熟のひとつの指標になっているのではないかということです。実際に若年雇用と貧困問題を巡る言説の中では、職がなければ結婚もできない、子供も作れないということが強調されがちです。

むろん、そこで目指されている戦後民主主義モデルが、必ずしも「完全な家族」を志向しているというわけではないでしょう。というのもそこで称揚される「家族」とは、さしあたり「愛情」によって結ばれるもっとも近しい関係、というものになっているからです。内閣府が06年に行った「国民生活に関する世論調査」では、家庭の持つ意味として、休息や安らぎを得るという面が上位に挙げられています。

それは、90年代における家族を巡る表象が、「崩壊」と「トラウマ」のモチーフに彩られていたことへのリアクションといっていいでしょう。つまり、形式として存在している家族にすら、様々な見えない問題が入り込んでおり、それゆえ家族とは形式が整っていることではなく、家族「的」な情の繋がりを持った集団だ、という風に意識が変化してくる。言い換えれば、愛情のある/なしこそが、その集団を家族と呼べるかどうかの指標になってくるのです。

そのことは、家族を巡る言説の愛情化、つまり恋愛モチーフと家族モチーフの地平が連続するという事態をもたらします。90年代の少女マンガや00年代のアダルトゲームに、繰り返し「性」と「家族」が一体のものとして登場するのは、こうした背景によるものだと思います。数年前、ギャル向けの雑誌『Egg』で、もっともしてみたいセックスのシチュエーションに「”俺の子供を産んでくれ!”って言われながら中出しされたい」というのが挙がっていたことを思い出します。ケータイ小説にも、おきまりのように「妊娠」というモチーフが登場し、それが「堕胎」あるいは「出産」のどちらの結末に至るかで、ストーリー全体の趣も大きく変わるという構図が存在しています。

なぜ「終わりしかない日常」の中で、愛情や家族というテーマが反復されるのか。それは、90年代的な俗流心理主義、つまり、子供の時に受けたトラウマはリカバー不可能であるという時間感覚を覆しうるのが、「愛情による一発逆転」だという意識があるからでしょう。心理主義に依っている限り、虐待や家族離散を経験した「私」は、その過去の一点において、未来を決定づけられる「欠損を抱えた存在」として意識されてしまう。こうした過去を無効化するためにこそ、あるいはそうした過去など存在しないのだということを強調するためにこそ、「終わり」の感覚へと過去を回収していく身振りが要求されるのではないか、というのが、現時点における僕の仮説です。

ところが他方、家族の愛情化によって生じるジレンマも存在するのです。ここで「家族」と呼ばれているものは、吉本隆明的な対幻想の領域ではなく、社会を維持するための規範として要求される理念型、すなわち共同幻想の領域に生じているものです。しかし同時にそこでは、「愛情」が限りなく「生殖」へと近づいているという現実も存在する。そこで「家族」という理念と「生殖」という現実との間をどのように両立するのかという問題が顕在化するわけです。

それは具体的には「公共圏」の問題として登場します。リチャード・セネットの『公共性の喪失』において、冒頭で挙げられるのが、非親密圏における愛であったことは示唆的です。僕たちは、生殖活動や過剰な愛情表現を行ってはならない場所のことを、公共圏だと捉える社会を生きています。かつてのカラオケやネットカフェなど、ラブホ代わりに手軽に使える都市空間が、最終的に規制の対象になるのはそういう理念に依っています。

終わりしかない日常の時代における情交は、表面では強く規範的な「愛情による繋がり」を強調する一方、生殖に関わる活動を不可視化し、アンダーグラウンドへと追いやる傾向にあります。第一回で述べたいくつかの作品における、異様にふわふわとした未来への誓いと、生殖という生々しいモチーフの同居は、そうした公共圏の設計とも関わる問題なのかもしれません。

長く書きすぎたせいで、今回は音楽について触れることができませんでした。次回は、こうした生殖を排除する公共圏におけるもうひとつの繋がりの形式である、「仲間」という関係のあり方について、ET-KINGなどを参照しながら論じてみたいと思います。