うろ覚えの”J”ポップ時評 第5回(from『エクス・ポ』第一期)

第05回:「脱オタ願望と承認」

前回の連載で僕は、リア充化した秋葉原を逃れて渋谷へと逃避するというモチーフと、そこに賭された一発逆転願望としての「運命の絆」の関係を示唆しました。その上で今回は、「モテ」を巡る宿命的な意識の問題を扱うつもりでした。しかし、前回の原稿を脱稿した直後、秋葉原の無差別殺傷事件が起き、少しだけ状況が変わりました。

周知の通り、この事件は格差や流動的な雇用の問題と並び、逮捕された容疑者のネットの書き込みに見られる「モテない」自意識が焦点となりました。というよりこの問題は以前からネット上では何度か話題になったことがあり、僕自身もその延長線上でいろいろなことを考えていたのですが、ある意味で、現実のカタストロフが言論を追い越した格好です。原稿を差し替えることも考えましたが、時間的に間に合わず、「非コミュ/リア充」「渋谷/アキバ」といった対立軸はそのまま、事件の持つひとつの抑圧性を顕在化したものになってしまいました。

その抑圧性とは、有り体に言えば「現在の自分の鬱屈は、居場所や属性といった環境要因ではなく、自分自身のコミュニケーション能力に起因するものだ」ということです。つまり、アキバ系だろうとエロゲオタだろうと、リア充な奴はいる。そうなれないのは、まさにその人の対人関係能力に欠陥があるからだ、というわけです。

今回の事件は、ネットの一部で、こうした「コミュニケーション能力自己責任論」こそが容疑者を追い詰め、凶行に至らせたのだという立場を採ります。事件そのものの分析として、それが妥当であるのかどうかを判断する術は、現在のところありません。しかし、事件を巡って顕在化した抑圧性が、そのような反応を引き起こしたことは、興味深い出来事だと思います。なぜならそこでは、問題の解決策として「環境側の意識変革」、すなわち「こんな僕を無条件で認めてくれる人がいない限り、絶対に僕が救われることはない」→「悪いのは僕を認めない世の中だ」という主張が導き出されているからです。

このことは、前回も取り上げたPCゲーム『Chaos; Head』においても見られるテーマです。主人公、西条拓巳は内向的なオタクでありながら、世界の運命を巡る大きな戦いに巻き込まれていくのですが、その過程で、世界を救う力に目覚めることを、周囲から幾度も求められます。そのたびに彼は、自分にはそんな能力はない、これは自分を陥れるための陰謀なんだ、と耳をふさぎ、味方であるはずのヒロインたちを罵倒します。こいつらは、二次元美少女との安楽の世界を壊しに来た「悪」に違いないと。その様はプレイヤー(僕たち)をして不愉快にさせるに十分で、人によっては主人公のボイスをオフにしてプレイしているようです(むろんそれは、作品の制作意図でもあるのでしょうが)。

この作品のクライマックスは、妹を人質に取られた拓巳が、渋谷Q-Front(がモデルのビル)の上に登らされ、衆人環視の中、超常的な力に目覚めるべく試行錯誤させられるところでしょう。普通のお話ならば、ここで拓巳は世界を守る戦士として覚醒し、周囲の美少女たちとともに「敵」へと向かっていくところです。しかし拓巳はその覚醒に失敗し、妹を救うことからも逃げてしまいます。

なぜこうした展開が折り込まれたのでしょうか。それは先ほどの、コミュニケーション能力の欠如した自分が悪いのか、そんな自分を認めない周囲の環境が悪いのか、という対立軸を補助線にすることで読解できます。拓巳の態度は基本的に、自分がコミュニケーション能力を欠いた存在であること、それゆえに周囲との交渉を絶つことが、相手にも自分にも有益なことであるというものになっています。そのため、自分に対する干渉はそのルールを破るものであるわけですが、そうすると、干渉する周囲は、彼らの意図と関わりなく、拓巳にとっては「僕はこんなにおとなしくしているのに、どうして放っておいてくれないんだ」という形に反転して映じることになります。自分はルールを守って「ダメな自分」というイメージを受け入れているのに、それを許してくれない周囲――お前には可能性があるんだと呼びかける者――は、そのルールを破る存在であると。

つまりここで拓巳は、自己責任を受け入れ、自らをネガティブな立場に固定することで、究極的な自己責任の否認=どうせ何をやってもダメなのだから何もしないという身振りを肯定しているのです。対して彼の周囲は、ポジティブな自己責任、つまり、環境へ働きかけて状況を改善する能力を拓巳に見いだしています。拓巳が自己責任を徹底することで、「環境が変わらない限り状況は打開されない」という立場に近づいていくのと逆です。

ではなぜ、『Chaos; Head』においては、拓巳は一度、覚醒に失敗したのか。それはこの「覚醒」の場面が、多くの環境的な後押しによって演出されていることに由来しています。妹が人質にされていることもさることながら、重要なのは、彼の覚醒を野次馬的に待望する、多くの「観客」が配置されていることです。彼らは拓巳にコールを送り、彼の覚醒を促そうとします。つまりここで彼は、「能力者」として承認されているわけです。

拓巳は、そうした周囲の励ましや承認に基づいて「勇気を出し」、能力者として覚醒することを拒否します。正確に言うと、強固な意志で拒否することすらできないのです。彼自身が述べるとおり「ヘタレ」としか言いようのない態度です。

しかし、裏を返してみればこれは、テレビ版エヴァンゲリオンにおけるラストシーン、あの「おめでとう!」に対する拒否であるとも言えます。このラストを大塚英志が「自己啓発セミナー」と批判したことはよく知られています。樫村愛子によれば、自己啓発セミナーにおいてよく用いられるのは、「幼児的な退行共同体」での承認体験を通じた、全能感の獲得なのだそうです。その意味で拓巳が直面したのは、「脱オタクのための自己啓発セミナー」体験だったと言うことができるでしょう。ちなみに『Chaos; Head』においては一旦は「他者から促される覚醒」は否定されることになるのですが、この「自己啓発的脱オタ」そのものは、最終的には果たされることになります(そうしないと話が終わりませんから)。

ただポイントは、その「脱オタ」なるものが、他の作品でも重要なテーマになりつつあることでしょう。たとえば花谷敏嗣『セキララ!!』や田中ロミオ『AURA~魔龍院光牙最後の闘い』(ともに二〇〇八年)といった作品では共通して、オタクだった過去の自分を封印し、一般人として恋人や友達を作ろうとしている少年が主人公になっています。いわば彼らは「脱オタ」成功組なのですが、しかし、そこに過去の自分を思い起こさせるような妄想的オタクたちが次々と関わってきて、彼らは捨てたはずの「オタクだった自分」も、自らの本質として認めざるを得なくなります。この辺りのプロットもほぼ共通です。

しかし、両作品のスタンスとしてもっとも重要なのは、脱オタして得られた承認は「にせもの」であり、「ほんとうの自分」であるところのオタな自分を承認してもらえなければ意味がない、と見なされていることです。しかも実際に、主人公たちの周囲にはそうした承認が自然に配置されており、それを拒否している意固地な自分こそが問題だとされているわけです。

脱オタしてモテるようになって、でも、それってほんとうの自分を承認してもらったことにはならないじゃないか、というモチーフが扱いやすいのは、それがボーイミーツガールやラブコメと結びつけられるから、というのが作り手側の事情でしょう。ですが、この部分には単なる商売上の意図を越えた、クリティカルなトピックが含まれている気がします。つまりここでは、「ほんとうの承認」なるものがあるかないかということが、「自己責任か環境か」といった問題の困難を一発で無効にする要素として持ち出されているのです。

この「ほんとうの」何かを求めてやまない志向というものは、この連載で繰り返してきたとおり、「終わりなき日常」の後の現在、「終わりしかない日常」における、確からしさの根拠として持ち出されるものなのでした。それはストリートカルチャーにおいては、成長の根拠であると同時に成熟の証でもあり、言い換えれば「終わりという時間そのものの停止」を意味する出来事として現れるのでした。

オタク系コンテンツにおいても、その「時間の停止」というモチーフは共通して存在します。次回はこの連載の終着点として、もう一度「終わりしかない日常」の時間感覚と、それを停止させる出来事を希求する傾向について、考えてみることにしましょう。