うろ覚えの”J”ポップ時評 最終回(from『エクス・ポ』第一期)

最終回:「祈りから願いへ」

この連載を通じて僕は一貫して「終わりがあらかじめ組み込まれた日常」の問題を扱ってきました。その「終わり」とは、かつて宮台真司が「終わりなき日常を生きろ」という形で否定したある種のカタストロフであり、具体的には「運命の人との出会い」によって辿り着く「トゥルーエンド」のことを指すのでした。それはストリート系カルチャーにもオタク系カルチャーにも共通するモチーフとして、00年代を通じて存在感を持っていたのです。

そして、その「終わりの過剰」は、常に「次の始まり」に開かれることで、終わりが繰り返される世界へと私たちを誘います。何度も懲りることなく次の恋へと突き進むケータイ小説の主人公たちや、すべてのヒロインとのエンディングを迎えることで、真のエンディングへと到達できるようになるという長大な構成をとるKey系の恋愛アドベンチャーなどは、その現れのひとつと見ることができそうです。

他方で、その「トゥルーエンド」への欲望は、そこから疎外されていると感じる人にとって、抑圧としても機能します。しかもその抑圧は往々にして、「運命の人に巡り会えないのは、自分にその資格や能力がないから」という自己責任論として自覚されます。抑圧を受けた人の一部は、「そんな抑圧をかける世の中が悪いんだ!」という先鋭化した主張に賛同しますが、そうでない人の場合、「どうせ僕が悪いんだから、放っておいてくれ」という風に閉じこもっていくことになります。

運命の人を求めながら出会えない、だからこそ閉じこもる振る舞いは、どこかで運命の出会いという蜘蛛の糸を待ち続けている点で、「終わりへの欲望」から、決して自由ではありません。そこには、かつて哲学者の廣松渉が「物象化」と呼んだような現象、すなわち、求めれば求めるほどにそこから遠ざかってしまうというジレンマが現れていると言っていいでしょう。

物象化された欲望の中で宙づりになり、身動きが取れなくなった人は、どのような自己認識に至るでしょうか。既に述べたような自己否定的なモメントは、社会に対して開かれるとき、「こんな自分でも許容してくれる世の中であるべきだ!」という主張へと反転していくのかもしれません。ですが先回挙げた「脱オタ」をテーマにしたライトノベルなどから見えてくるのは、「別にオタだろうとなんだろうと、運命の出会いの可能性は開かれている。それに出会えない意固地な自分は変えないとダメだ」という自己啓発=自己アップデート礼賛論です。言い換えれば彼らは宙づり状態のまま「要は、勇気がないんでしょ?」と言われ続けているわけです。

ここまで追い込まれた人にとってもっとも苦しいのは、自分の存在が本源的に「世の中に迷惑をかける」ものであるということ、そして、そのことを否定してくれる人が存在しないということでしょう。その多くがただの思いこみに過ぎず、他人から見れば「否定された自己」のイメージに甘えていると映るのだとしても、彼ら自身には、根源的な承認なしにそのハードルは越えられないと自覚されているわけです。

その根源的な承認-被承認の関係をここでは暫定的に「母-息子」関係に限定して論を展開しましょう。むろん父や娘における承認論は非常に重要ですが、議論の展開や紙幅の都合で、ジェンダー的な偏りを許容することにします。

ここで僕がイメージしているのは、誕生のその瞬間から根源的に与えられる自己への承認です。90年代の俗流心理学が広めたトラウマ言説は、僕たちの中に「出発点において受けた傷は、生涯を通じて回復できないか、できるとしても多大な苦労を要する」というイメージを植え付けたわけですが、トゥルーエンドへの欲望にしても、終わりの過剰にしても、結局のところはこうした「傷は回復できない」という思いこみを打破する一発逆転の希求だと言い換えられるでしょう。

その具体的な表象として、『エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』における碇シンジの母、ユイの次のセリフが挙げられるでしょう。すなわち「生きて行こうとさえ思えば、どこだって天国になるわ。だって、生きているんですもの」というものです。

父ゲンドウは、シンジが生きていく世界がいずれ「地獄のような時代」になることを見越していました。しかしそれでもなおユイは、その世界も「生きていこうとする意思」さえあれば、天国になりうると主張する。そしてそれは単なる無責任ではなく、命を失ってもシンジを見守り、物理的にも守り続ける存在となることで、彼に生きていってもらおうとするユイの思いの表れなのでした。

ですが、ここまで根源的な承認を得られることは希です。人は多かれ少なかれ、こうした承認の欠如をどこかで感じながら、自分が世の中に対して迷惑をかけなければ生きていけないような人間であることを恥じながら、それでも生きていくための小さな承認を日々積み上げていくことで、その自己否定感を乗り切っていくでしょう。

連載のタイトルに戻って、J-POPの中にそうした感覚を読み取るとすれば、その頂点は宇多田ヒカルの「誰かの願いが叶うころ」(2006年)でしょう。この曲を通じて表現されているのは、自分の存在が、幸せを願うほど、誰かを傷つけてしまうような、幸せのトレードオフを体現している存在だということ、そしてそれでも自分という存在は、幸せを願うべきかどうか逡巡しているということです。

考えれば宇多田ヒカルの00年代における表現は、「光」に代表されるように、常にネガティブな環境、ゲンドウの言葉を借りれば「地獄のような時代」に、それでも目一杯「幸せになろう」とする意思を見出そうとするものでした。しかし、そうやって幸せを求めることが必然的に誰かの幸せを奪わざるを得ないとき、それでも自分は幸せになるべきなのか? という根源的な問いが、ここで突きつけられているわけです。

みんなが幸せになれればいいのに、と誰もが思います。そして自分のせいで幸せになれない人がいるなら、自分の存在を滅却してしまえばいい、と思ったことがある人も、少なくないでしょう。ですがそのことが、今度は別の誰かの幸せを奪うかもしれない。誰にも迷惑をかけずに自死することすらできないからこそ、「みんなが幸せになればいいのに」というのは不可能な祈りであるわけです。

おそらく00年代のポピュラーカルチャー表現の中から、取り上げるべき要素をひとつだけ挙げろと言われたら、僕はこの「不可能なものに対して、それでも祈る」というモチーフを挙げます。それはおそらく90年代のスガシカオあたりにも予告されていたものではありますが、多くの人にとって切実なものになったのは、やはり00年代に入ってからではないかと思います。

本来ならそのことについてもっと詳しく述べたいのですが、連載も最終回を迎えてしまったので、ここでは最後に、ではその「祈り」の後に、私たちが今いる地平とは何なのかということについて述べておきたいと思います。

J-POPの中からその鍵を探すとすれば、おそらくRADWIMPSの一連の作品、特に「25コ目の染色体」「有心論」「オーダーメイド」に至る、一種宗教的な色彩すら帯びた、根源的な承認をテーマにした楽曲でしょう。そこで一貫して描かれているのは、生まれる前から、あるいは細胞のレベルで僕たちが承認されているということであり、だからこそ生きていていいのだという、強烈な自己肯定感です。むろんその背後には「自分の中の嫌いなところ/自分の中の好きなところ/どっちが多いかもう分かってて/悲しくなった」という自己否定感も折り込まれてはいます。しかしその否定の感覚は、曲を通じて必ず肯定感へと回収されます。この強烈な自己肯定への意思はおそらく、宇多田ヒカル的な「祈り」が不可能だと諦めていた、「願い」の成就ということを意味しているのだと思います。自分の願いが叶うことが誰かを不幸にするのだとしても、願わずにはいられない幸せ、そのことに正直になることから、RADWIMPSの表現は出発している。その点で、00年代から10年代へと至る過程の中で、一度は諦められた「願い」が、素直に前面に出てきていると言えるでしょう。

それはこの連載で述べてきた「終わりしかない日常」から別の「始まり」へと開かれることであり、「90年代の繰り返しゲーム」のようですらあった00年代のほんとうの終わりとでも呼ぶべきものです。祈ることしかできない僕らから、願う僕へ。その願いの中にこそ、希望を見出せないかと、00年代の僕は祈らずにはいられません。

そして最後の最後にもう一つだけ。祈りと願いの差異について。祈りは、相手に対して「届く」ことが前提ですから、その祈りを届ける媒体、すなわちネットやケータイを含むメディアの表象分析と非常に親和性が高い。その意味で00年代の表象分析がメディア論に接近したのは、単にネットが普及したからだけではなかったはずです。

しかし「願い」はあくまで「叶う」ことが期待されている。誰に届けるかではなく、叶うか叶わないかが問題である以上、そこでは願いを伝える表象ではなく、願いが叶う直接性の領域にこそ、表象分析や批評の可能性が折り込まれてくる気がします。それは00年代的な批評言説の終わりを、いま僕たちの前に予告しているのかもしれません。