神と天才とユートピア 第一部 「ソーシャル」なものの終わり (1) 素晴らしき総表現社会

連載

つまるところ僕たちは、神と天才とユートピアの話をしなくちゃいけない。そう思ってこの文章を書き始めている。もともと連載という形式が苦手だし、オチを決めずに書き始めて、ちゃんとオチまでたどり着けるかと言われるとそれも不安なので、もしかしたら途中で投げ出してしまうかもしれない。けど、いま僕の考えている時代の変わり目みたいな感覚について文章化しておかなかったら、きっと投げ出すよりもひどい未来が待っていると思うのだ。

僕がしようとしているのは、ソーシャルメディアを中心とした、いわゆる「ソーシャル」なものが中心になって色んなものを振り回した、そういう時代の終わりと、その次にくる何者かについての話だ。もちろん、社会科学というよりは、僕はもう次にいくよバイバイっていう直感に類する話をしようとしているのだから、手っ取り早く「次はなにか」って話をする方が楽に決まっている。でもこれまでの経験からすると、僕が「終わったな」って思っているときにほとんどの人は「これからはこっちの時代だ!」と思っているわけで、なぜ終わってると思うのかについてちゃんと書かないと、話を進めることもできないだろうなと思う。

というわけでこの連載の第一部は「ソーシャルなものの終わり」の話をするのだけど、そこでやり玉にあげるのはTwitterだとかFacebookの話じゃない。もちろんソシャゲとかでもない。「プラットフォームビジネス」と呼ばれている、ある種のビジネスモデルが、どうやってソーシャルなものを食いつぶしているのかという話だ。

先日、ロイターが面白い記事を配信していた。記事ではソニーのCFOである吉田憲一郎氏が、ソニーの現状について「テレビやラジオの『放送の時代』、CDやDVD、ブルーレイディスクなど『パッケージの時代』、いずれもソニーは主役だったが、2003年からアップルが『iTunes』を導入して状況は一変。iPodやiPhoneで、デジタルコンテンツをネットワーク配信する『ネットの時代』に、ソニーは主役の座から滑り落ちた」と認識しているのだという。

もちろん、ソニーがネット配信に乗り遅れたのではない。むしろアップルよりも早くに配信事業に乗り出していた。それにもかかわらずソニーがアップルに負けたのはなぜか。それは、ソニーが配信のプラットフォームを付加価値化できなかったからにほかならない。

プラットフォームビジネスの価値とは何か。それは「市場の二面性」と呼ばれる特徴を活かしながら、商品の提供者と消費者を拡大させ、両者のシナジーを得るところにある。市場の二面性(two-sided market)とは、「売り手が集まるところには買い手が集まり、買い手が集まるところにはさらに売り手が集まる」という特性のことだ。近年の経営戦略論においては、この特性を活かして、売り手と買い手の相乗効果が期待できるようなプラットフォームを運営する事業者の強みに注目が集まっている。楽天やアマゾンなどのeコマースや、iTunes Store、Google Playのようなコンテンツ配信サービスが、その代表と言っていいだろう。

こうした事業においてはまず、プラットフォームを運営する側が、そこに商品やコンテンツを提供してくれる売り手を多数集めてくることになる。そうして集まったコンテンツの評判が高まれば、多くの買い手が集まる。たくさんの買い手が集まる評判のプラットフォームになれば、そこに売り物を置いてもらうインセンティブが高まる。そうした売り物が、また新しい消費者を呼びこむための価値になるわけだ。

しかしながら、そうしたプラットフォームはたいてい他でも同じようなことを始める事業者が多く、そうした事業者間の競争が起きる。ビジネスの競争において重要なのは差別化戦略による比較優位性の獲得だと言われている。そして差別化は一般的に、価格か付加価値によって行われる。プラットフォームビジネスであれば、よそと同じ商品をよそよりも安い値段で売ってもらうか、よそでは売ってない商品を自分のところにだけ置いてもらうかしないといけないわけだ。

プラットフォームでの売り物にも色々あるから、一概にどういう戦略がいいのか、簡単には決められない。ただソニーが売ろうとしていた「音楽ソフト」のような商品は、既にリアルの場に大きな流通市場があった。要するに独占販売は難しい状況にあった。そうすると次は価格で勝負するしかない。

プラットフォームビジネスでは、どのようにして低価格化を実現するのか。もちろん中間業者の中抜きだとか在庫リスクの低減だとか、ネット通販に固有の要素はある。だがそれは売り物を持っている方の話であって、プラットフォームの運営側のメリットではない。では運営側にできることは何か。プラットフォームに競合する事業者を集めて競争させることだ。

楽天の例で考えてみよう。楽天の中には、同じメーカーの同じ商品を、別の店舗がそれぞれ独自に仕入れて販売しているケースがある。同じ商品を売っている競合に勝とうとすれば、在庫を切らさないようにギリギリまで仕入れるか、値段を下げるしかない。小規模事業者ほど在庫リスクが高まるので、結果的に価格競争のインセンティブが高まることになる。

同じ商品でなくても事情は変わらない。僕たちはたいてい、「予算」というものを頭に入れて買い物をする。Aという曲を買って予算を使い切ったらBの曲は買えないし、逆も同じだ。Cという映画で感動するのか、Dという映画で興奮するのか、それも選択のひとつだ。

実はプラットフォーム事業者にとってはA、B、C、Dのいずれの商品が売れても、その売上からマージンが取れるわけだから、競合も含めてできる限り多くの売り物が並んでいることが望ましい。一方で売り手にとっては、その中で自分の提供する商品でなければいけない理由を作り、買い手に提供するという営業努力が求められる。

そうした非対称な関係を受け入れてでもプラットフォームに売り物を並べたいと売り手が思うのは、そこでしか商品が売れないくらいにプラットフォームが受け入れられた場合だ。プラットフォームの価値を高めるとは、要するに玉石混交の商品をとにかくたくさん並べて、その売り手に激しい競争を煽りつつ、そのことによって消費者が集まる場にするということなのだ。

ソニーの場合、グループの事業の中に音楽を売るエンタメ事業や、既存のソフト(CDなど)を再生する機器の製造販売事業があり、こうした競争によるプラットフォームの付加価値化戦略をとることが困難だという事情があった。それがアップルに対する敗因のひとつだったと、いまから振り返れば言えるだろう。ただ、話はそのひとつ先の段階に来ている。

要するにこうしたビジネスにおいてプラットフォーム運営事業者が望むのは、売り物の独自性と商品提供者の拡大だ。そうすると究極的には、どこにも流通していない商品を自分のところにだけ流してくれる小規模、あるいは独立の事業者を囲い込むことが必要になってくる。

例えばニコニコにはプロ・アマ含め無数のクリエイターが集まり、たくさんの作品やコンテンツ、エンタメ的体験を提供している。もちろん彼らは直接ニコニコで販売事業を展開しているわけではないけど、その中には一定アクセスを稼げば月額課金分が無料になると言われれば、創作の努力を惜しまない人もいるのではないか。

ライターの南充浩は、多くを専業主婦が担っているとされる「趣味の作り手」が、ネット通販などを通じて、価格破壊という形でアパレル産業の裾野を圧迫していることを指摘している。いまやプラットフォームの存在によって、個々の創作動機が、お小遣い程度であれば収入に変えられる時代になっている。

Web2.0、CGMなどと言われていた時代、『ウェブ進化論』の中で用いられた「総表現社会」という言葉が注目を集めた。これからは個人のクリエイターが輝く時代だ、という受け止められ方をしたけど、もっと重要だったのは「チープ革命」って言葉の方ではなかっただろうか。もともとは情報通信技術に限定して言われていたとはいえ、安く作れるものが手間ひまをかけたものを駆逐するというビジョンは、ある部分ではまさに当てはまる。

しかし、当たらなかったこともある。それは、チープ革命によって到来する総表現社会においては、マスメディアなどの既存の権威は否定され、誰もが自由かつフラットに情報にアクセスできるようになるのだという想定だ。だがいま訪れているのはそうじゃない。誰もが表現できる時代に、その表現を安値で買い取り、既存の生産コストの中で商品を提供するプロも巻き込んだ低価格競争の中で価値を高めるプラットフォームの運営者が勝利したのだ。

といっても、僕は強固な反権威主義者ではないので、プラットフォームからものを買うのをやめようなんてことを言うつもりはない。ただ、プラットフォームの中に巻き込まれている売り物の提供者が、同じプラットフォームの競合を横目で見ながら頭ひとつ抜け出ようと頑張るのは、なんだか惨めに思える。

だから僕はこの連載で、僕たちに自由な表現を強いることで儲かっている誰かの存在や、その仕組みについて書きながら、もう、そういうの気にするのやめようぜって話をしようと思っている。何一つ不自由なく生きられていると思うとき、それは自由なのではなくて、自由を感じさせてくれるシステムが自分を生かしているのだと思わなくちゃいけない。そしてそこから出たいと思うかどうかは、その上での個人の選択だ。

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