神と天才とユートピア 第一部 「ソーシャル」なものの終わり (3) 非言語化するウェブ

もう少しだけ前置きが続く(そう、前置きだ)。

技術に疎い人間がこういうことを言うと反論されそうだけど、コンピューターとはつまるところ、入力に対して出力を返すだけの計算機だ。そしてその入力は、C言語が開発された1972年からずっと、言語をベースとしたものだった。1984年のMacintoshからはGUIに変わっていったという考え方が主流だけど、それだって「ファイル」メニューの「保存」をクリック、という形でコマンドが視覚的になっただけで、入力=命令が「ことば」によって表現されていることに変わりはない。

だからパソコンソフトの解説書(特に入門書)というのは、要するに入力の仕方を説明するものだった。何を入力すればいいかについては、既存の仕事とか町内会のチラシ作りとか、以前からある仕事の延長線で考えていた人も多かったはずだ。で、現代においては、特にスマホやタブレットなどの端末で新しい入力方式が一般化するとともに、そこで入力する内容も変化しているのではないかと思う。

個人的にはこの辺、例えばゲームのチュートリアルがどう変わったかとかそういうことについても論じたいのだけど、今回の本題はそこじゃない。ポイントは2点。ひとつはそうしたパソコン−OS−ソフトウェアの性格がウェブにおいても適用され、そこでの「コミュニケーション」が「言語を入力すると言語が出力される」というイメージに縛られていたこと、もうひとつは、近年のウェブが、そうした言語によるやりとりではないものへとシフトしつつあるということだ。

ウェブ上でのコミュニケーションが「言語から言語へ」という特徴を持っていることを、そこまで深く説明する必要はないだろう。メール、掲示板、コメント欄からトラックバックやリンクのシェアにいたるまで、人と人とがやりとりする方式や内容は違えども、コミュニケーションといえば言語の入力に対して言語、あるいはシンボル(現代思想的には両者の間にそんなに大きな違いはない)が出力されることで、相手への投げかけが成立したことが示されることが当たり前になっていた。

それに対する新しい動向のことは、この数年、IoT(Internet of Things)と呼ばれている。後で説明するようにこのIoTもビッグデータと同じく、以前からあったものの看板を掛け替えてビジネスに活かそうというバズワードな側面がある。とはいえ今回話題にしようとしている「入力系が非言語化する」というトピックの取っ掛かりとしてはとてもわかり易い名前だと思う。

IoTとは「モノのインターネット」と訳されることが多いが、つまりはセンサー間のネットワーク化を通じた、ネットワークの新たな利用法、およびその応用による事業化のことだと考えていい。たとえばダイヤモンド・オンラインの記事では、空調設備にセンサーを付けて稼動状態をネット上で管理できるようにした米国の会社の事例が出てくる。

センサーネットワークによるインフラ管理というと、かつて日本政府も推し進めた「U-Japan戦略」におけるユビキタスネットワークと同じではないかと思うかもしれない。U-Japanが、少なくとも当初の予想ほどはうまく進まなかったのに対して、東日本大震災前後にスマートグリッドが注目された流れもあり、ユビキタスネットワーク社会で語られたようなビジョンが再浮上してきている側面は確かにある。だがこれまでの話とは異なるところもあるので、あらためてその内容を確認する必要があるだろう。

日本政策投資銀行のレポートによると、次世代ネットワークビジネスの構成要素として重要なのは、IoTに加えM2M(Machine to Machine)、そしてビッグデータであるという。それらの間をつなぐのは「情報」なのだが、その情報を取得するための手段が「センサー」だ。センサーといってもその種類は多種多様で、温度を測るだけでも何をどこで測るかで求められる技術が異なる。ただスマートフォンのような、いくつものセンサーを内蔵したデバイスの普及によりセンサーの受容が拡大していること、この分野での日本の競争力が高いことから、今後の成長が期待されているわけだ。

特に目新しい点としては、(1)センサーから情報を入力する環境が良くなったこと、(2)センサーからの情報の処理能力が向上したこと、(3)処理された情報を応用する可能性が広がったことが挙げられる。

まず、センサーから入力される情報について。以前U-Japanなどで考えられていたのは、たとえばRFIDと冷蔵庫が通信して賞味期限を知らせてくれるとか、救急車などの緊急車両が通行しやすいように信号が自動で変わるといったものだった。すなわち、センサーの側でそれなりに多くの情報を持ったり、社会全体で機能しないと意味がなかったりするものだった。センサーのコストが下がらなかったため、こうしたビジョンを実現するのも困難になったし、一部はクラウド化やスマホに埋め込まれたGPSで実現されてしまったものもあった。

ただ、取得する情報を限れば、それなりに精度の高い情報が得られるセンサーはたくさんある。温度や湿度といった環境に関する情報だけでなく、加速度センサーによる傾きの情報や心拍数のような生体情報をモニターすることも容易になってきた。その中にはたとえばマシモジャパン株式会社の「iSpO2」というiPhoneに接続するパルスオキシメーターなど、一般に普及しつつある製品も多い。

さらにその情報の処理も高度化している。小林雅一によると、センサーからの情報の処理にはベイズ理論が応用されており、センサーが周囲の情報を繰り返し計測、そのたびにベイズ定理を適用することで精度の高い情報を得ているという。こうした技術はGoogleの自動運転車にも用いられているものだ。

またその情報を応用する先についても、様々な可能性が語られている。先に上げた政策投資銀行のレポートにおいては、重要なのはアプリケーションのオープンな開発を可能にするプラットフォームの構築であり、そのためのデータ共同利用のための制度整備であることが述べられている。つまり、データをとにかくたくさん取ってきて、それをどのように活用するかについては各種事業者の自由にさせることで参入障壁を下げ、新産業の創出を促そうというのである。

要するに「IoT→M2M→ビッグデータ→多様な活用」という流れをスムーズにしようということなのだ。もちろんそのデータは僕らの生体活動や行動、あるいはそれに伴う社会的状況や環境の変化から生じているものも多い。そしてそうした情報がトリガーとなってコンピューターが自動で作動し、僕たちを取り巻く環境が生成されるわけだ(この点については、もう7年も前に上梓した本で詳細に論じている)。

だからウェブの「非言語化」とは、このコンピューターを作動させる入力系が、コマンドからセンサーが出力する情報に変わり、またそれがコンピューター間の自動通信によって流通するようになるということを意味している。おそらくこの分野は、政財間の連携によって今後も推し進められるし、前回述べたビッグデータの話も、そうしたビジョンの中に位置づけられるものだと思われる。

とはいえ前途洋洋かというとそういうわけでもない。U-Japanの話を考えても、こうした技術をいきなり社会全体に適用させて展開するのは難しいだろう。コストの問題や制度の問題だけでなく、自身を由来とするデータの利用に反対する人々もいるので、その調整に時間がかかるかもしれない。

だとするなら、もっとも可能性が高いのは、データを利用することでメリットを得られる人の同意を元にしたデータ利活用システムの展開だろう。具体的にはヘルスケアやウェアラブル端末、社内や家庭内に限定したインフラの管理などの分野で、ライフログ的な情報を用いた利活用が提案されていくことになる。特にヘルスケアとウェアラブルの分野は、インフラ構築の手間がかからない分、オープン・イノベーションのためのプラットフォームがうまく機能すれば、いくつもの技術的応用例が登場することになるだろう。

僕が「ソーシャルの終わり」という話をしようと思う背景のひとつには、ウェブのソーシャルな側面、すなわち人間と人間、あるいは人間と機械が言語を通じてやりとりするというビジョンの外側で起きている、いわば「アーキテクチュラル」な側面がますます重要性を増し、ソーシャルな活動ですらもそうしたアーキテクチュラルな世界においては処理可能なデータのひとつでしかなくなるという判断がある。

というよりも、ビッグデータに限らず、多くのデータは「個人情報」であると同時に、「このデータは統計的に処理され、個人を特定しないように用いられます」と調査票や約款に書いてあるとおり、どこの誰がどんな意図で出力した情報(つまり発言や行動)なのかということを問わないことと引き換えに、事業に利用することを許されている。だからデータの利活用が進めば進むほど、そのソーシャルな側面が抜け落ちていくか、少なくとも後景化するのは当然のことだとも言える。

じゃあ、僕たちが何の気なしに行動したことがコンピューターを動かすトリガーになり、それと知らないままに僕らの生きる環境を生成していく時代に、人が言語を通じてコミュニケートしていくことには、いったいどんな意味があるんだろう。次回は第一部の締めくくりとして、その点について考えてみたい。

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