神と天才とユートピア 第一部 「ソーシャル」なものの終わり (4) 分かりあえないってことだけを

僕たちがウェブだと思っているものとは別のところに、コミュニケーションではないものによって作動するウェブが広がりつつある。それがこの連載の前提となる認識だ。もちろんそれは純粋に技術的なものでも、商業的なものでもない。法などの社会制度の変化を伴いながら拡大するという点で、社会全体の大きな動きなのだ。ただ、僕たちが見ているウェブの世界とは異なるために、いちいち説明しないとそれがウェブだと気づかれないので、ここまで前置きの話を続けてきたわけだ。

ではそういう世界で、ウェブ上の「ことば」のやりとりはどういう意味を持つのだろう。この連載を始めるタイミングで、日本のウェブ上ではソーシャルメディアが終わるの終わらないのという話で盛り上がっているらしい。特定のサービスが面白いかどうかについては個人の自由に任せるけど、「ソーシャル」という言葉の指すものについては少し整理しておいた方がいいような気がする。

ソーシャルという言葉じたい、ソーシャルメディアの流行とともにバズってる印象があるのだけど、少なくとも現在においてはふたつの意味で用いられることが多そうだ。ひとつは「ソーシャル・キャピタル」と呼ばれる、人と人との繋がりを指すもの。ソーシャルメディアの「ソーシャル」もこれに近い。専門的にはソーシャル・キャピタルといっても、ビジネスなんかに役立つコネやツテと、地域のコミュニティの連帯みたいな意味があるんだよという話があるのだけど、さしあたりその辺は区別されていない。

もうひとつは、特に資本主義経済が中心的な原理となっている社会に対するオルタナティブな価値観や、それを生み出すための原理のことを意味する「ソーシャル」がある。ソーシャルビジネスとか、そういう言い方で使われるもの。効率とか経済的利益を主たる目的にしない活動や、それをうまく資本主義経済と両立させるための取り組みは、「倫理的消費 Ethical Consumption」などと呼ばれ、海外の消費社会研究でも中心的な話題になりつつある。

興味深いのは、このふたつの「ソーシャル」はときに混同されたり、一方が他方の条件になるとみなされたりする場合があるということだ。だが別にソーシャルビジネスを展開するのにソーシャルメディアを用いることが必要であるわけじゃないし、ソーシャルメディアに背を向けるからといって、資本主義経済の軍門に下るとか、そうした価値観を否定しているわけではない。なにより後者が社会の変化を目指すのに対して、前者は社会的な便益というよりは個人にとっての価値に照準することもできるので、そもそも依って立つ基盤が異なっている。

それを確認した上で、いまウェブの世界で「ソーシャル」と呼ばれていること、つまり個人がウェブを使って人間関係を広げていくことで、その人の可能性や未来が開けるという話について、どのように考えるべきか。ミクロのレベルで考えれば、いい思いをする人もいるし嫌な思いをする人もいる。だからやりたかったらやればいいんじゃない、という言い方もあるだろう。しかしマクロの視点で考えれば、これほど無責任な言い方もないように思える。自己選択を推奨しているように見えて、そこに存在するリスクは個人の好みで受け取り方を変えられたり、回避できたりするものであると考えなければならないという「押し付け」に鈍感であるか、意図的に無視しているからだ。

2013年に出した本で詳細に論じたように、ウェブ上でのコミュニケーションが僕たちにとって負荷の高いものになるのは、本来は空間的に切り分けられていた社会的なコンテクストが混在することで、どのように振る舞えばいいのかが分からなくなるからだ。人は家族や恋人に向ける場合と、仕事先の人に向ける場合で態度もものの言い方も違うのが当たり前なのに、両方が同じ場にいる環境で、両方に向けて同じことばを発することを求められるのが、いまのソーシャルメディアの環境だ(なのでそれを回避するために「裏アカ」だの「別アカ」だの「サブグループ」だのを作らないといけなくなる)。

コンテクストとは何か。文脈っていうけど、要するに前後の関係、これまでの経緯によって同じことばでもまったく意味が異なるということだ。たとえば「教育に体罰は必要だ」という主張があるとする。コンテクストを気にするなら、その人が教師なのか学生なのかあるいは会社員なのか、その人が実際の教室でどのような経験をしてきたのかということで、その言葉の持つ意味や重みが変わるはずだ。

ところがソーシャルメディアにおける発言は、そうしたコンテクストをまっさらに脱色して、純粋に「ことば」としてそのメッセージを発信してしまう。結果的に起きるのは、一般論として体罰はいいのか悪いのかという議論であったり、それよりももっとひどい、異なるコンテクストの人どうしの不毛な争いだったりする。実際に荒みきったいまの教室を見ても体罰禁止なんて言えるのか!という人と、体罰で子どもをなくした人の前で同じことが言えるのか!という人が、異なるコンテクストの上に立って同じことばを巡ってすれ違い続けることになるのだ。

これはあくまで例であって、体罰に対してソーシャルメディア上でどのようなやりとりがなされるのが理想なのかという話は別に立てうる。実際、そうした諍いの末にきちんとした論争が行われ、互いが双方のコンテクストを理解した上で共通の土台が生まれたというケースもあっただろう。だが僕たちの多くはそういうコミュニケーションを面倒だと感じていて、そういうコンテクスト違いに遭遇した場合「絡まれた(=不当にも非難された)」と認定してさっくりブロック、という流れになっているだろう。

というか最近ではそういうのすら面倒なのか、Twitterをやるなら鍵付きで、という流れだろうか。教育関係者にとっては不用意な発言で自分の学校まで炎上するのが嫌なので、鍵をかけてもらうのはありがたい反面、大人の見えないところでのやりとりからいじめが発生しても見えづらくなるというデメリットもあるのだけど。

もちろん、別にリアルの知り合いとしかやりとりしていないからといって、コンテクストの混在による混乱が生じないわけではない。というよりリアル知り合いの間でのコンテクストの混乱のほうが、はるかに面倒である場合が多い。あっちの人にはリプライしたのに俺のことは無視か、みたいな話には、誰もが飽きるほど遭遇しているのではないか。

だから混乱を避けようとすれば、一番は何も書かないこと、ついで大事なのは、できるかぎりコンテクストフリーな発言を心がけることになる。どんなことばがコンテクストフリーになるだろう。まず、テレビのコメンテーター並みの当り障りのない正論。人が死んだら痛ましい、友達にいいことがあったら自分のことのように嬉しい、がんばってほしい、など。あとは、多様に解釈しうるぼかした表現。これは本で書いたように時に混乱を招くけど、もともとは特定の解釈から自由になるためのテクニックだ。あとは共感を目的にした独り言。愚痴とか決意表明とか。

こうして書くと分かるけど、要するにコンテクストフリーであるということは、できる限りメッセージでないもの、コンサマトリーな、相手へのシグナルとして機能すればいい情報を発信するということだ。そのように考えると、LINEのスタンプというのはとてもいいところを突いたビジネスモデルだと思う。メッセージをやりとする人は、ことばで何を返していいか分からない相手にとりあえずスタンプを送りたいし、その種類はできるだけ多い方がいい。そこにスタンプを宣伝媒体として用いたいクライアントを絡めて、次々と新作が供給される環境を作るわけだ。

そのほか、Instagramとか、別にFacebookのいいね!でもいいのだけど、要するにソーシャルメディアがもたらすコンテクストの混乱を回避するために、メッセージの内容を最小化して脱コンテクストなものにするというのが、大きな流れなのだと思う。もちろん、そんな中でも自らの主張を展開したい人はいる。ただ多くの人は、そうした主張の果ての論争や、周囲と話が通じなくなるリスクを避けたいと考えているのではないか。

大事なのは、これが個人の意識や心構えの問題ではなく、現在のウェブにおけるソーシャルなものの活用の広がりの中で求められているものだということだ。何度も繰り返してきたことではあるけれど、今回の話に沿って説明しよう。

マスメディアではSNSのことを「交流サイト」と説明するけど、実際は「社交」というのが正しい。この場合の社交の源流にあるのは、18世紀の啓蒙主義の広がりの中で誕生したコーヒーハウス(カフェ)における人々のつながり。さらに遡れば、中世ヨーロッパの宮廷貴族たちの社交術がその背景にある。特に近代のコーヒーハウスにおける社交は、教養さえあえれば誰もが参加できるという点で近代的なものだったこと、さらにそこから新聞やパンフレットを通じた政治参加などの公共的な議論が生まれたのが特徴だとされている。

ソーシャルメディアが期待されていたものは、このコーヒーハウスのウェブ版であり、人々が自らのコンテクストを離れて「パブリック」なことばをやりとりする場になることだった。実際にそのような場として機能している社会もある。日本でもそういう風に用いている人がいることも知っている。だが第一部で繰り返してきたのは、いま「ソーシャル」なものに期待されているのはそういう「おおやけのことば」ではない。私的なことばを個人の感情の赴くままに、途切れ途切れながらも絶え間なくウェブにゴミとして垂れ流し、その中から「生活者のインサイト」を発見することが求められているのだ。

だから、僕たちはいまのソーシャルメディアの環境の中で「ことば」を発すればするほど相手とすれ違っていくことになる。その仕組みのことを考えずに、確かにしんどいこともあるけれど、可能性だってあるんだからそれを信じてコミュニケーションしよう、というのは、その人に負荷を強いるだけでなく、既存の仕組みに知らず知らず迎合しながら、本人は何かの社会変革を目指しているつもりになっているという点で滑稽でもある。

こうした仕組みに敏感な人たちは、割と早い段階で「ことば」による相互理解を諦め、数量的に把握されるようになった人々の私的なメッセージや行動を公的なものに変換する仕組みについて考えるようになっている。たとえば東さんの『一般意思2.0』や鈴木健さんの『なめらかな社会とその敵』には、そういう風な位置づけで理解すべき側面がある。

ところで、ここまでの話は僕にとってあくまで前置きにすぎない。そして「どうすればソーシャルメディアでパブリックなことばが交わされるようになるか」といった論点にも、この後触れるつもりはない。この「ソーシャル」な環境の中で、ある種の人々が、ある種の行動をとり、別の何かにつながっていく。その細いつながりの中から、いまこの瞬間に僕たちを突き動かしているものの正体に迫りたい、というのが、この連載の初発の動機になる。

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