里山ウェブについての補足と覚え書き

連載については、大学が休みに入って研究室に置いてる資料を確認できなかったので一休みさせてもらっていたのだけど、それとは別にこの鼎談が面白かった。

【さやわか×東浩紀×海猫沢めろん鼎談】「10年代の状況とコンテンツ」 – イベントレポート | ジセダイ

内容的には東さんとさやわかさんの意見の食い違いに目が行くところだけど、個人的にはLifeで取り上げた「里山ウェブ」の話が出てきていたので、そこについて補足すべきかなと。

海猫沢:マスメディア以外の方法で、どう面白いコンテンツを確保していくかという話で言うと、先日、TBSラジオ「文化系トークラジオLife」という番組で、里山ウェブというテーマが出たんです(6月22日「里山ウェブの時代」)。里山ウェブって、造語なんですけど、元は藻谷浩介さんの「里山資本主義」から来てるんですね。ようはアメリカ的なマネー資本主義のサブシステムとして、エコな里山で生活するのもいいんじゃね、というのが「里山資本主義」で、そのウェブ版というイメージです。

いわゆる評価経済的な世界というか、すごく狭い、地下アイドルとか有名ニコ生主みたいな人が一杯出てきて、セルアウトして消えていくというサイクルの早い世界ってどうなんだよと。それはそれで面白いかも知れないんだけど、現状ではそこからガイナックス的な革命集団が出てくるかというと、結局、小さいままで革命は起っていない。ネットはサステイナブルな世界ではない。

そもそも里山ウェブという言葉をそこまで大々的に展開するつもりもないし、いろんな人が自由に使えばいいのだけど、僕自身が考えていたのはこういうこと。

数年前、「Web2.0」なんて言われていたときには、一億総クリエイター時代になるんだって言われていました。でも経済原則で考えれば、コンテンツの供給が増えれば単価が下がるのは必然。しかもウェブのビジネスモデルは、プロが時間をかけて丁寧に作った作品よりも、素人に「今日食べたもの」「いま感じていること」「友だちと行った場所」といった情報を絶え間なく発信させ、それをビッグデータとして解析する方向に向かっています。

要するに、「プロのクリエイター」であろうとする人たちにとって、いまのウェブ環境はまったく「おいしくない」ものになっています。先のスガシカオさんの発言は、そういう背景の中で理解すべきものだと思うんです。

じゃあどうするのか、って考えた時にひとつの道としてあるのは、不特定多数の人たちに作品をばらまいていくのではなくて、自分の作品の価値を理解してくれる人のところにきちんと届くような流通手段をとること。CDやアナログ盤や限定版っていう選択肢は、そういう風にも受け止められると思います。

そう考えてみるとこれって、最近話題の「里山資本主義」の話に近いのかなと思いました。特に金融危機と震災のあと、経済原則に従って利益を最大化しようとするマネー資本主義に対するオルタナティブな選択として、ある程度閉じた経済圏の中で資源を循環させる定常型社会のイメージが、様々な人によって語られています。藻谷浩介さんの『里山資本主義』という本がヒットしているのも、そういう背景があるということでしょう。

難しい言い方をすると資源利用が競合する、つまり誰かが囲い込むと別の人が排除されるリアル経済の話と、データが無限にコピーできるデジタルの世界をごっちゃにしてはいけないんですけど、作品も「コンテンツ」として買い叩かれてしまういまのウェブ環境で、あえて相対的に閉じた流通の中で作品の価値を維持しようとする動きは、里山資本主義のウェブ版、いわば「里山ウェブ」とでも言えるのかなと思ったわけです。

小難しい思想が好きな人向けに言えば、資本主義の原理の中で自らの作品がよそよそしいものに感じられてしまう労働疎外の状態にあるクリエイターたちが、創り手と受け手のよりよい関係を目指して築き上げようとしているウェブ共産制が「里山ウェブ」って感じでしょうか。あるいは、流通の仕方の選択がそのままどのような社会を選ぶかということに関わるという意味でこれは、速水さんの『フード左翼とフード右翼』のクリエイター版とも言えそうです。

2014年06月22日Part0(予告編)「里山ウェブの時代」 (文化系トークラジオ Life)

ここで考えていたのは、要するにコンテンツではなくコミュニケーションが、あるいはコンテンツをダシにしたコミュニケーションがお金を生み出すんだという社会が登場したときに、コンテンツというのは社会を変えるような質を持つかどうかではなく、いま話題になる瞬発力を持つかどうかだけで評価されるようになった。そうすると、「これは伸びそうだ!」というものがメジャーにフックアップされるのではなく、インディーのままでも十分に大資本に囲い込まれる可能性が出てきた。だから里山ウェブの話は、大資本がインディーなものを駆逐したのではなく、インディーなものがメジャーに取り上げられて使い捨てられる速度が早くなったので、そこから身を守りたいというクリエイターの選択肢として出てきている。

それが東さんの言うようにサステナブルでないかどうかは、ジャンルやクリエイターにもよるのでなんとも言えない。僕としては番組ではその辺をニュートラルに考えつつ、消費者側の選択肢としていまの状況ってどうなのよ、と問いかけるとともに、そもそもそういう状況があるんじゃないの、ということを理解して欲しかったわけだ。

この構造が読めているかどうかが、「05年以降の状況」であるところの「コミュニケーションの時代」を理解できるかどうかを分けるのだと思う。これは、00年代の初頭には面白いものがたくさんあったけど、それもどんどんメジャーなシーンで消費されるようになって大衆化してしまった、もうあの頃の爆発力ってないよね、という主張に対して、いやいやまだまだ面白いものはありますよ、という話ではない。爆発力があって面白そうなものは、シーズの段階で目をつけられてコミュニケーションのネタにされてしまうという状況で、シーズの爆発力をどう維持するかという話なのだ。

むろんそれは逆に見れば、大資本が囲い込んでいるコンテンツやクリエイターが、以前ほどはお金を生み出しにくくなっていたり、その人たちの報酬と市場規模が見合わなくなったりしていることの現れでもある。ただ、だからといって草が生えかけのフィールドで焼畑農業しても誰も幸せにならないことははっきりしてきて、次の展開をどうするかについて考えだしている時期なのだろうなという予感はある。いま同時多発的に言われ始めている「ソーシャルの終わり」、つまりコンテンツが売れないのでコミュニケーションからお金を稼ごうぜという時代の終わりについて、僕はそういう視点から考えるべきなんじゃないかと思っている。

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