ソーシャルメディア界隈での「トレンドの限界」を指摘する論調が、去年にもまして目立ってきた。昨年はアメリカでも「若者のFacebook離れ」が報じられたが、今度はPew Researchが「ソーシャルメディアと沈黙の螺旋」という記事を公開した。(英語、日本語での紹介記事)
記事の要点を述べるなら、人々はスノーデン事件のような政治的な話題を議論したいと思っているものの、それを実際にソーシャルメディア上で議論することはなく、ノエル=ノイマンの言う「沈黙の螺旋」に陥っているということになろうか。沈黙の螺旋とは、人々が感じ取った多数派の意見と異なる意見を表明することを困難にする同調圧力のことだ。メディア研究の中では常識的な見解だが、なにも空気を読んで発言を控えるのは日本人だけの特徴ではない。ただ、なぜ人々が沈黙するのかという要因については、分析のしがいがありそうだ。
興味深いのは同記事で、人々はリアルな場では政治的な議論をしたいと考えていることだ。僕たちはリアルな場でこそ政治的な議論を避ける傾向にあるし、だからこそネットでのみ極端な政治的主張をする人たちにある種の動機を与えてしまうところがあるのだけど、ともあれこうした傾向は、ソーシャルメディアにおける「沈黙」の理由が、リアルな場でしか伝わらない何かが、ネット上でのやりとりに欠けているからだということを示唆している。
それを僕の言葉で説明するなら「コンテクスト」ということになる。詳しくは去年出した本か、こちらの記事を参考にして欲しいのだけど、ソーシャルメディアにはよく「顔が見えないから」と説明されるような「脱コンテクスト」的な傾向がある。コンテクスト、つまり文脈とは、ある「ことば」の背後にある流れのこと。「お前は馬鹿か」という一言も、学校の先生が生徒に言うのか、気心の知れた友達に向けて言うのかでは意味がまったく違う。だがソーシャルメディア、特に実名性の高いメディアでは、本来ならひとりの個人に存在する、友人知人の切り分けごとのコンテクストを混在させ、またリアルの知り合いとそうでもない人との間でもコンテクストの混乱を起こす。こういう状況では「うかつなことは書かない」というのが合理的な態度になることは間違いない。
さて、僕がこの記事を読んで思ったのは、また「大移動」の季節がやってきたのかなということだ。過去の記事を掘り起こしてみると、2011年2月にこんなことを書いていた。
人がウェブサービスを利用する大きな動機は「反応が返ってくること」だと言われている。言いたいことを言いっぱなしに言えるからではなくて、自分のアクションに対して何かリアクションが返ってくると、それにさらにリアクションをしたくなってしまう、というわけだ。もちろんそれはポジティブなリアクションばかりとは限らない。けどネガティブなリアクションの連鎖も「2ちゃんねるは殺伐としてるのが本来の姿」といった具合に認められてしまうこともある。
このリアクションの連鎖がウェブ上のコミュニティを生むわけだが、人と人との関係である以上、そこには大きなサイクルというものが存在する。どんな集団でも、出会った当初は気持ちが盛り上がるが、やがて冷めていくものだ。ネットの場合、最初にネットならではの「つながり力」みたいなものがポジティブにはたらいて、あんな人とも、こんな人とも出会えるなんて、素晴らしい!みたいな段階がある。コミュニティが急拡大すると、そこには独特の文化が生まれ、日常とは違う「そこでしかできないコミュニケーション」が、うまくリアクションの連鎖を導くというスパイラルも生じる。
ある程度まで拡大したコミュニティの中に、ノリを共有できない人の存在や、メンバー同士の意見の食い違い、仲良くなりすぎた故の気遣いの必要みたいなものが意識されだしたあたりから、コミュニティは内向きになる。拡大することよりも、既存のメンバーの関係を維持することに注意が向けられるようになり、またそうした人の間でも、リアルで会うのは年に一年くらい、基本はお互いの近況を眺めるだけ、という状態に陥ることがある。
気をつけなければいけないのは、これはあくまでサービス内でのネットワークの繋がり方の問題であって、サービスの利用者の増減とは関係ないということだ。ノリが内輪化して、よほど合う人間でなければ新規参入しなくなるサービスもあれば、内輪での情報共有や関係維持に特化して、リアルの繋がりをウェブ上に持ち込むためのサービスに衣替えすることで、利用者を拡大することに成功するケースもあるわけだ。
ウェブサービスのトレンドの変化は、こうした「停滞する関係」のリセットという動機から生じる場合がある。(中略)ウェブサービスをコミュニティ単位で移動することで、以前のサービスで関わっていた人の中から「付き合いたい人」と「付き合いたくない人」を選別するのである。
この記事ではTwitterに触れていないし(僕自身は07〜08年にはがっつり利用してたけど)、その後2011年をピークにmixiの収入は低下し、13年には大学生のユーザーが激減したと報じられるなど、急速に大移動が進む。その点ではこの記事の予測はちょっと弱気だったかなと思うのだけど、ウェブコミュニティのサイクルだとか、その原理、そしてFacebookの特徴が「重たい情報発信」ではなく「アーキテクチャが自動生成する行動履歴」のようなカジュアルな情報発信にシフトすることでライトユーザー層にもアクティブな利用を促すという点にあることなど、本質的な指摘が多いなと我ながら感じる。
ここで大事なのは、ウェブコミュニティのサイクルとは
- 内輪ノリが見知らぬ人と共有され、コミュニティが拡大する
- コミュニティに新規参入した「空気の読めない人」のせいで内輪ノリが乱れ始める
- 内輪ノリの心地よさを維持するためにコミュニティにクローズな集まりが乱立する
- クローズな集まりの閉塞的で停滞した関係が「大移動」への動機を形成する
- 移動先のメディアが登場し、「大移動」による関係性の再構築が進む
という変遷をたどるものだということだ。
この流れに沿ってここ10数年のトレンドを分析してみよう。00年代の初頭、2ちゃんねるに「大規模OFF」のムーブメントが生まれ、ウェブが罵り合い(という名のじゃれあいを含む)の場から、リアルな関係をベースにしたコミュニケーションへとシフトを始める。だがこの内輪ノリも03年頃には停滞してくる。04年にmixiなどのSNSが登場すると、ユーザーの多くはそちらに流れ、既存の関係を再構築するとともに新たなつながりにも開かれるようになる。
その後08年から12年にかけては、コミュニティのクローズ化とソーシャルメディアのマルチ化が進む。mixiで内輪のやりとりをしつつブログやTwitterで関係を広げ、Facebookでもリア充をアピールしつつLINEではクローズに悪口を言い合うといった具合に、あけっぴろげな内輪ノリとクローズな関係維持の間で不安定なバランスを保ってきた。
こうしたトレンドは、11年から13年にかけてのバカッター騒動、LINEの急速な拡大を経て、いまは強い「クローズ化」の段階にあると見ていい。昨年辺りから各方面で言われるようになってきた「ソーシャルメディアの限界」は、いわば内輪ノリでオープンにコミュニケーションしづらくなったことの現れだと考えるべきだろう。
では、これからのトレンド予測はどのように考えられるか。大きく2つのシナリオがありうるだろう。
ひとつは、このまま既存のソーシャルメディアが衰退し、LINEなどのクローズな場に完全にシフトしてしまうということ。おそらく次に述べるようなブレイクスルーが起きなければ、こちらの方がより現実的だ。だがそれもユーザーにとっては快適であるとは限らない。むしろ内輪でのやりとりの範囲を狭くするほど、同調圧力とその制御は困難になる。クラス全体のLINEがあり、サブグループがあり、個別のやりとりがあり、それらの全てで自分の顔を使い分けながら、おおっぴらには優等生の顔をしつつ内輪では陰口、というつながりは、特に自分が集団から受け入れられているという安心感の低い人にとっては強い心理的な負担になるし、それが生む孤立不安から「ソーシャル依存」のような状態が生じることも、複数の研究で示唆されているところだ。
いまひとつは、技術的、商業的なブレイクスルーやイノベーションが生じて、04年のソーシャルメディアへの大移動に匹敵するエクソダスが生じる可能性だ。というのも「オープンな内輪ノリの快楽」と「クローズな内輪ノリによる他者の排除」は、ともに多くの日本のユーザーのニーズとして存在してきたので、このままクローズになるよりも大移動先のメディアを用意した方が商業的な可能性は高いからだ。ただしこのシナリオも、この10数年のウェブコミュニティを支えてきた、現在の30代〜40代の層がファミリー層になってウェブへのニーズが変化していることや、より若い世代に「オープンな内輪ノリ」への期待が乏しいように見えることを考えれば、絶対に芽があるとも言いにくい。
いずれにせよ2014年は、10年ぶりに「大移動」のきっかけが生まれる年になるのか、このままウェブコミュニティが停滞していく(ある意味でウェブが「健全」な公共圏に近づく)ことになるのか、その分かれ道となりそうだ。