「プロのコンテンツ」だから稼げるわけではない

この夏から一気に「ソーシャル終わるよね」→「バイラルうざいよね」みたいな流れが加速しつつある日本のウェブ界隈。僕自身はそれを個人の好みではなく仕組みの限界の問題として考えてきたのだけど、じゃあそれに対して何ができるのか、何をするのかという点についても、そろそろ考えないといけない段階に入ってきているのだと思う。僕は実務家ではないから、逆に何を書いても無責任になるところがあるので、仕組みの話しかできないけど。

 今年の夏コミケでは、小林幸子がブースを出したことが話題を呼んだ。

 演歌界の大御所の小林幸子とオタクの祭典コミケ。何の関連性もない異色の取り合わせである。だが、その異色さだけで3時間経たないうちにCDが完売してしまった。

 だが、このコミケCDは数万円で転売されている一方で、コンサートチケットは100円のまま買い手がついていないという。

 「小林幸子」と言うコンテンツそのものではなく「コミケに参加した小林幸子」がオタクの間でやたらめったら注目を集め、消費されたのである。

オタク文化は「世代を超えた悪乗り共犯行為」で壊されてゆく – ボン兄タイムス

コンテンツがそれだけでは売れなくなったので、コミュニケーションによって付加価値をつける、あるいはコミュニケーションそのものが価値であるような売り方をする、というのがここ最近のマーケティングの特徴。社会学においては、以前は「男性は対象消費的だが女性は関係消費的」だと言われていて、実際にマクロにはまだその傾向はあるものの、特にオタクコンテンツを中心に、コミュニケーションが付加価値になるケースが目立つようになっている。

それは言い換えると、どんなに技術を磨き専門性という意味でのプロフェッショナリティを向上させたとしても、うまくコミュニケーションにハマらないものは見向きもされないということだ。さらに言えば、コミュニケーションにハマるものであれば、うまく右から左にパスする「媒体」の役割を担ったほうが注目を集められるということでもある。

そもそも多くのメディアは「右に存在する情報を左の読者に受け渡す」パサーの役割があり、紹介者が元々の情報よりも目立っていくのはごく当たり前の話と言えます。紹介者が情報源よりも肥え太るというのは、既存メディアで大いに見られる景色です。

「どこまでが紹介で、どこからがパクリになるのか」「どこからがネタ元に敬意を払う行為になり、どこからが得るべき報酬の強奪になってしまうのか」はよくよく考えなければなりませんし、「報酬」が実利だけでなく名声や発信力などにまで拡がっている今、どれだけ気を使っても情報源のパワーをメディアが奪ってしまう自覚は必要です。

「バイラルメディア運営者」がダメすぎて滅びてほしい | @raf00

パスをする側がこのくらい慎重で誠実な意識をもっていればいいのだけど、既存のソーシャルの仕組みの中では、こうした志は容易に挫けてしまう。連載で何度も繰り返しているように、あるネタ元に対して気軽に反応するように仕向け、それらを量的に掬い上げることによって価値を生み出すビジネスが主流になっているからだ。当然その「コメント」は、元の情報と比較すれば、かけた労力という面でも内容という面でも見劣りのするものになる。

これをパス側の視点から見るとどうなるか。「うーん」とか「これはすごい」とか、そういう通り一遍のコメントをつけたところで「自分」への注目を集めることはできない。できる限り扇情的で、時には極論といえるようなコメントをつけて話題を喚起し、その中心に踊り出ることが重要になる。「こいつの目は腐ってる!」とか「○○して何がいけないんですかー?」といった風に。「脊髄反射」というネット用語があったけど、こうしたコメントはむしろ脊髄反射を煽るような、そういう極論だったりするわけだ。

別にそれはネットの世界に限らない。テレビにしたって「勇ましい」「ときにイタイ」くらいのコメンテーターが、「いやしかしこれはこれで聴くに値するところもあるかも」といった風なポジションを獲得することもある。雑誌の見出しも然り。ネットの場合はそのサイズが小さくなるのに比して極論もその度合いがエスカレートするから、どんどん小さな輪に収まっていってしまうのだけど。

そうしたものが情報源のパワーを奪うのは、元ソースの側がどれだけ取材をしたり論理的な考察をしたりしていても、「は?それなんの意味があんの?」とか「じゃあお前がやってみろよ!」とか、そういう思いつきの一言で話が終わってしまう、言い換えれば議論喚起能力が奪われるからだろう。僕自身が経験したメディアの現場でも、長い経験と深い考察に基づいた専門性を持っている人ほどそういうものに対して距離を置くし、逆に若くて注目度が低い人ほど扇情的なコメントで支持者を獲得しようとする傾向にある。僕も特に20代の頃はそうだったと思うので、あまり悪くは言えない。

これは止まってる連載の第二部で書こうと思っていることなのだけど、こうした「極端なことを言って周囲の注目を集めようとするパフォーマンス」を見ていて思い出すのは、00年前後の話だったか、小中学校の教室において「誰もやらないようなことをやってみせる」振る舞いが子どもたちの間で「神」扱いされ、尊敬の対象になったという話だ。実際に「おお、あいつマジでやりやがったよすげえ」という行為はヤンキーの暴走、古くはチキンレースみたいなものからあるものなので、それが特別な現象とは思わないけど、そういう「個性」を争うような状況があった、という記述には、どこか「極論が個性になる」ソーシャル時代のウェブに通じるものを感じる。

さて、ここ最近のバイラルへの風当たりの強さは、要するに「よそから持ってきたものにタダ乗りし、より扇情的にすることで金儲けしている」ことへの反感から生じている。というよりも、「素人が付けた一言コメントをいくら並べたところでなんの価値も生まれない」ことがいよいよ明らかになってきて、モデルの転換を迫られているということなのだと思う。

そうした中、とても興味深いのは、クックパッドが「プロのレシピ」を月額モデルで配信することにしたというニュースだ。

クックパッドは月間4000万人が利用し、約180万品のレシピ情報が投稿されているが、「生活者の料理実態に目を向けると、雑誌やレシピ本を見ている人はまだまだ多く、より幅広いシーンを網羅したかった」と、同社執行役員の加藤恭輔氏は新サービスの狙いを語る。料理の腕が上がりクックパッドの必要性が下がった“上級者”向けの受け皿がないという課題もあったことから、プロのレシピに挑戦する新たな楽しみを提供したいという。

紙の“シズル感”には数年勝てない–クックパッドで「雑誌レシピ」が見放題に – CNET Japan

クックパッドと提携するいくつかの出版社は、独自にレシピを公開している。プロのレシピはこれらのレシピや、雑誌のみに掲載されているレシピを同一のプラットフォームで閲覧できるのが特徴だ。各社の雑誌は写真やレイアウトでレシピ内容を伝えることがあるが、プロのレシピでそれを再現するのは難しい。そこで、誌面のレシピを出版社の意向を損なわないよう、クックパッド側で編集しているそうだ。「慎重に言葉を選んで編集するのが地味に大変な作業だった」と、同社執行役員の加藤恭輔は振り返る。

クックパッドに雑誌掲載の「プロのレシピ」、月額360円で見放題 – TechCrunch

プロのレシピそのものは以前からあったのだけど、リリースのタイミングで出たコメントや取材記事を読んでいて面白いのは、このタイミングでまさに「ソーシャルなもの」によらない付加価値を模索する動きが出てきたことだ。実際の交渉のペースを考えれば、もっと以前からの動きなのだと思うし、そこにはこれまでのプロのレシピの個別の売上の推移とかもあったのだろうと思うけど、「素人が作ったものでもプロにも負けない情報がある」みたいな前提が、受け手のニーズとして崩れつつあるのかもしれない。

なんの根拠もない直感だけど、いま起きている地殻変動は、読者モデルだとか、視聴者参加型リアリティTVだとか、ソーシャルメディアだとか、素人の自前発信とプロのコンテンツが交錯し、前者が後者を凌駕する可能性を見せていた、そういう時代の曲がり角なのだと思う。それはきっと、僕より少し下のコギャル世代から、いまの20代後半くらいまでの世代にはある程度受け入れられていた価値観だとして、これからもずっとそうであるかどうかは分からないな、と。

ただし、「素人が出したものって面白くないよね」「だからちゃんとプロのコンテンツを提供しよう」というのはひとつの流れとしてはありだとしても、プロのコンテンツならば素人の直情的な反応より面白い、役立つ、ためになるのかというとそういうわけではない。ましてそれがお金になるかどうかは微妙だ。

経済学の教えによると、商品の価格を決定するのは、送り手がそこにかけた労力ではなく、市場における需給バランスだ。プロのコンテンツというとどうしても手間がかかっているから割高になる(べきだ)と考えがちだけれども、どれだけ手間ひまをかけても市場のニーズが反応しないものに値段はつかない。冒頭の小林幸子さんのコンサートチケットのように。だからプロのコンテンツを送り出すというとこは、そこにかけた手間(労力・投資)を回収するモデルを作り出すということでもある。

ビジネスモデルを作れないのであれば、送り手がどれだけ質の高いものだと思っていても、赤字を垂れ流すだけの不採算事業になる。ここで重要なのは、コンテンツがすぐにコミュニケーションに接続される現在のウェブの仕組みだ。プロであるということは「素人には容易に真似できない」ということを意味するし、コミュニケーションに接続されるとは「プロの仕業であっても対等な立場でコミットできる」ということだ。その究極の形がパクリや盗用だ。

著作権や特許というのは、「盗用してはいけない」から法で保護されているのではない。パクリ放題の環境では、手間をかけたものにタダ乗りされることで投下した投資が回収できなくなるので、誰も手間を掛けたものを市場に提供しなくなる。こうした外部不経済を抑制し、手間をかけた分の投資を回収できる余地を与えるために、著作権や特許は一定期間保護される。もちろんその期間は社会によって異なるし、ウェブの保護期間がリアルと同じでいいのかというテクニカルな議論もありうるだろう。いずれにせよこうした前提と、ソーシャル化し、素人とプロの境界をあいまいにしてきた現在のウェブの相性は悪いし、そのモデル構築はみんなが模索中というところだ。

おそらく、コミュニケーションとコンテンツの間には、ある種のグレシャムの法則のようなものが働いている。グレシャムの法則=悪貨が良貨を駆逐する、とは、憎まれっ子世にはばかるという意味ではない。それ自体が資産価値を持つものよりも、価値を持たないものの方が流通の媒介としては有用だ、ということだ。逆に言えば、本当に価値を持つもの、それはコンテンツであったり、誰かとの人間関係であったりするものは、良貨である以上は常にどこかに囲い込まれるという性格を持つのだ。

問題は、その囲い込みの方法と範囲、それと収益モデルとの関係ということになろう。ソーシャルメディアがなくならないとしても、「里山ウェブ」的なやり方も含め、「お前たちのところには流通させない」という態度で臨むコンテンツの送り手が増えてくれば、ソーシャルの方も変わらざるを得ないのではないか。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする