アッパー自己啓発とダウナー自己啓発

9月というのは、来年の手帳が発売される時期なのだそうだ。まだ今年は4分の1以上残っているはずなのだけど。

一方で、最近は勤め先でも委員会のリーダーをつとめたり、学内外含めスレッドで走る仕事が増えてきたりしたことや、そうした仕事の多くが、これまでのようなメールによる依頼ではなく、会議や立ち話の中で決まる事柄を含んでいるため、紙の手帳やノートを持ち歩いてメモを取らないといけない状況になってきた。というわけでこの春くらいから、いろんなノートや手帳を物色しては活用法を考えている。

大前提として、そもそも僕は中学生の頃から電子手帳を自慢気に持ち歩く勘違いテクノロジストだったので、紙の手帳にはほぼこだわりはない。ノートに書いていた日記も30歳になるのを期にやめたし、大学生の頃には、気まぐれで手帳にスケジュールを書き込んだりしていた(その手帳も前回の引っ越しのときに全て捨てた)けれど、この10年あまり、ウェブ上のメールとカレンダーに記録されていることが仕事のタスクを確認するためのソースになっていた。

ところがまあこれは「スケジュール管理」ではあっても「タスク管理」ではないし(両者の違いについては以前書いた)、作業時間の見積もりを誤ったりイレギュラーな事態が起きたりすると一瞬にして破綻する。自分ひとりでやってる仕事ならともかく、ここでスタックすると全てのスケジュールが後ろ倒しになるみたいな責任を負っていると、どうしてもそれではマズいのだ。

前置きが長くなったけど、そんなわけでここに至るまで、MOLESKINEとEvernoteの連携法を探ってみたり(無意味だった)、各種文具メーカーがリリースしているノートを試してみたり(まだ決めかねている)、iPadでどうにかできないかアプリを探していたり(こちらも後日)、関連するウェブや書籍の情報を読みあさったり(同)しているのだけど、やっぱり手帳も必要だなということで、デザインは気に入っていたものの、その自己啓発臭がキツくて敬遠していた「ジブン手帳 mini」を購入。

ほぼ日と双璧をなすと噂の国産自己啓発手帳であるジブン手帳だけど、ほぼ日が利用の自由度が高い一方で「思想」を埋め込んでいるとすれば、ジブン手帳にあるのは自己啓発のための「フォーマット」だ。海外製品で言うなら、ほぼ日的なのは手帳だけじゃないけどMOLESKINE、ジブン手帳に近いのはフランクリン・プランナーだろう。

もちろん両者の比較記事なんかもあるので、機能的には好きな方を、ということなのだけど、やはり注目すべきは、三分冊のひとつ「LIFE」の持つ思想性だ。

前置きとして、フランクリン・プランナーの紹介記事にあった「手帳の世代」の記述を見てみよう。

フランクリン・コヴィー社の創設者であるハイラム・W・スミス氏とスティーブン・R・コヴィー博士は、「時間は管理できない。唯一管理できるのは自分自身の行動だ」とし、時間を管理するのではなく、自分自身の行動・出来事を効果的に計画し、管理することを目指そうとしました。
さらに、私たちが本当に充足感を感じ、安らぎを感じるために、私たちが持つ心の奥底にある価値観と日々の行動を結びつける方法とツールを開発しました。(中略)
単に目標を設定するのではなく、自分自身の価値観を発掘することによって、「最も大切なこと」を発見し、根底に置き、長期的な目標の立案や優先事項やタスクの設定を一線化し、調和するのです。あなたの行動にはブレがなくなることでしょう。

言ってることはシンプルだし共感できるところもあるのだけど、それが「紙の手帳」というテクノロジーに結び付けられるようになったのが90年代以降の話。日本ではこの数年かもしれない。背景には当然、デジタル化による紙の手帳の市場の衰退もあるだろうし、多くのウェブサービスやアプリが追いつけていない領域でもあるので、「やっぱり紙の手触りがー」とかしょーもないことを言ってる人ほどここから学ぶべきことは多いはずなのだけど、なぜ手帳である必要があったのかは分からない。

ともあれジブン手帳にも、こうした「自己の価値観を発見する」ためのページがあって、それが「LIFE」という分冊にまとめられている。その内容はウェブでも見られるけど、文字通りライフデザインに特化した構成だ。パスワードを管理するために、IDとパスワードの最初の文字+文字長を書き込め(自分が死んだ時のために大事なパスワードは紙に残しておきましょう!)なんていう、高木浩光先生が見たら光彩を失った目で淡々と刺しに来そうなページもあるのだけど、将来の夢だの資産だの病歴だの、生まれてから死ぬまで全部盛りという充実ぶりだ。

が、一方で気になるのは、これだけ充実しているのに想定されているライフコースがすごく狭くて画一的なことだ。過去を振り返ると書き込むことがたくさんあり、家系図(+家紋!)が辿れるほどに単純なルーツの持ち主であり、自分が死んだ時に利用しているウェブサービスの始末や緊急連絡をしてくれる家族がいることが大前提の人生。大切な人がいて、それが変わることなく自分と一緒にいてくれて、その人とともに歩み、積み重ねられる人生。

どうしてこうなってしまうのかと言えば、人生の価値観とか目標の射程が、キリスト教社会のそれとは異なるからだろう。死後の審判や神から与えられた使命といった、現世を超える価値について考えたり、そういう人が普通にいる環境がキリスト教社会にはある。ところが現世は現世、死んだらおさらばよ、という価値観で現世利益を追求する傾向の強い日本社会では、脱魔術化が進む中で、そうした現世利益の達成が人生の目標となってしまう。

一方で近年では、若い世代を中心にしたスピリチュアリティへの意識の高まりも指摘されるところで、こちらはスピリチュアリティというぐらいなので、現世の価値や仕組みを超越したところに自己意識の源泉を求めようとする。興味深いのは、その超越性が「ほんとうの・自然なわたし」へと直結されるその回路なのだけど、ともあれそこにも「自分の価値を求めようとする動き」としての自己啓発性がある。

たぶん「自己啓発」といっても、前者のアッパーなものと後者のダウナーなものでは質も受け手も違う。宮台真司がかつて用いた宗教意識の区分を用いるなら、前者は「幸せになりたい!」系、後者は「ここはどこ?私はだれ?」系だ。

アッパー ダウナー
射程 現世利益 超越的価値
目的 目に見える達成 自己の中での納得
意識 「幸せになりたい!」 「ここはどこ?私はだれ?」
画一的 多様

もちろん、個別の手帳には商品としての企画があり、受け手の間にも多様な利用法があるので、ほぼ日とジブン手帳をこの枠の中に当てはめて理解することが完全に正しいわけではない。でも、そこにはおそらく現代の日本社会における自己啓発、あるいは「ほんとうの自分を追求する」ときに見られるふたつの傾向が対比的に現れている、とは思う。というより、堤清二さんが「無印良品はブランドになった」と言った時点で、僕たちはこの種の「めんどくさい付加価値化」から自由ではいられなくなってしまったのだと思う。

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