店じまいの準備

毎年、年の締めのブログでは一年を振り返って記事を書いているのだけど、今年はすでに考えたことや主張したことでずいぶんと深掘りしたので、結構お腹いっぱいだったりする。とはいえ、仕事だとか活動だとかでもたくさんの出来事があったので、最後にそちらを振り返ってみたいと思う。

2012年、2013年と学会活動や著作でアウトプットの多い年だったけど、実はその2年、企画・空間設計から組織改革、チームの立ち上げ、業務の確定まで、とにかくありとあらゆることで手のかかってきた仕事である「ピア・エデュケーション」が、学部新校舎の開設とともに本格的にスタートしたのが、今年の最大のトピックだ。やってきた内容についてはすでに他の記事でも書いたけど、自分の仕事という意味で大きかったのは、マネジメントの仕方が変わったことだろう。lerningspace

フリーランスとか、あるいは研究者として個人研究する上でも、たいていのマネジメントは自分の都合との兼ね合いでしかないので、苦労することはあっても調整も容易だった。けど、人に指示を出したり、人の仕事を管理したりというマネージャー業務が出てくると、会議の数も増えるし、把握しておかなければいけない情報も増える。10数年ぶりに紙の手帳を使い始めたことも含め、ウェブサービスに保存した情報を都度確認しながら仕事をする、というスタイルは大きく変わることになった。

それに伴って、過去とか未来の考え方も大きく変わった。これまでは「一秒一秒が黒歴史」なんて言って、恥ずかしい過去を次々なかったことにしていたけど、部下に指示を出すのにそんなことは言っていられない。一週間の空き時間を管理し、中長期の計画に向けて現場での判断を下す上で重要なのは、なぜそのように判断したのか、どうやってそれを実現するのかということに関する一貫性した説明だ。どんなことでも「本当にそれでできるの?」「そうすることに意味があるの?」と聞かれてしまえば、言葉に詰まらざるを得ない。でもそこで「こういう計画を立てたから、こういうことを実施するのだ」と、まるでそれが自分の信念であるかのように説明できなければ仕事は進まない。自分の考えとは何なのか、かつての自分はどうで、これからの自分はどうしたいのかなんて、行き当りばったりでいいじゃん、とは、なかなか言えなくなった。

それから、今年のテーマである「リアルなもの」「フィジカルなもの」という点で言っても、ピア・エデュケーションの中で進めているのが対面型の少人数教育だったことは、自分の思考に大きく影響した。リメディアル教育の重要性から、高校の政経や経済学、憲法、政治思想史、哲学史といった分野で基礎から学び直すことになったのだけれど、こうした知識を前提にものを考えるようになると、単純なように見える出来事も、きちんとした勉強の知識をもとにしか話ができなくなる。

経済学の人たちがリフレとかで感じていた不満は、こういうことなのだろうなと思う。結論だけ言えばシンプルなことも、それだけを主張すれば、まったく不勉強な人から「どうしてそんなことが言えるんだ!」と返ってくるのがネットだ。だからこそ「分かりやすく書く」ことは大事なのだけど、それと同じくらい、「常連」とも言える顔の見えるメンバーと同じ知恵を共有し、考え、議論することからしか得られないものがあることを実感する。IPPS消費にまで至るトレンドシフトについてゼミ生たちと議論し、その子たちが自分のアウトプットに活かしていくのを見ていると、長い時間をかけて一緒に知恵を作ってきたなという感慨を覚える。

そんなわけで研究、勉強の面ではとてもリアルが充実していたのだけど、今年は自分の中でもうひとつ大きな変化があった。それは、食事をとらなくなったことだ。

もともとあまり食に関心の強いタイプではないのだけど、多忙のせいもあって、1日に摂れる食事の量が、基礎代謝の半分くらいのカロリー、具体的には1.3食くらいになってしまった。そうすると、みるみる体重が落ちるのもあるのだけど、たとえば長年悩まされていた逆流性食道炎がすっかり治り、胃薬を飲むこともなくなった。本当は規則正しく、一口ずつでも1日3回目に分けて食べるべきなのだろうけど、ほぼお昼ごはんだけしっかり食べれば健康を維持できるという状態だった。

また、それだけ食べていないと味覚も変わる。コンビニのお弁当なんかでも、へたに生感にこだわったパスタなんてのは、もうゴムを食べているような気持ちにしかならない。強烈にケミカルなものか、逆にものすごく素材にこだわった手作り料理でなければ口にできなくなったことも、食事量を減らすことにつながった。

もちろん、料理はしていた。毎週末に常備菜を3〜4品作り、それらを含め、毎朝の食事にも家族の食べる一汁三菜を準備する。フィリップスのヌードルメーカーを買ってみたり、粉からポンデケージョを作って焼いてみたり、写真だけ見ていると本当に食いしん坊か!っていうくらい料理の写真しか撮っていない。10599638_617655141690971_5959217184262461384_n

それにもかかわらず、自分ではほとんど食べなかった。そういう生活の中で思うのは、歳をとって朽ちていくのとは異なる意味での、自分が死に近づいていく感覚だ。即身仏とでもいうのか、体の中から生命維持に最低限必要なもの以外がなくなって、いつ死んでもいい躰に近づいていく感覚。料理はたくさん作ったし、たくさんの人に何度もおいしいおいしいと言ってもらえたけれど、自分のために食事を作ろうとはついぞ思えなかった。

リアルとかフィジカルの話というのは、実はそういう経験にも裏打ちされている。イベントやテーマパークにたくさん参戦したのも、なんかこのままいくと本当に死にそうだなという予感があったからだ。刹那的だけど、たぶん今年の僕は、そうやって一緒に食事をしてくれる人たちがいなければ、冗談抜きでゼリー飲料とエナジードリンクしか口にしていなかったかもしれない。一緒にいて、食卓を囲むことができる人がいる、それだけが僕の生存に理由を与えてくれる。BvPHw6fCMAInX41

身体を限界まで軽くして、一貫した自分として情報を処理し、誰かと一緒に学んだり食事したりする。それがこの1年の説明のように思う。「限定」とか「制限」といったキーワードが、自然に連想される。インターネットのような無限定の世界と、そういうフィジカルな生活はとにかく相性が悪い。むしろ、限定された世界で何をどうすれば、知識を伝えたり食を味わったりすることができるのかについて考える方が、きっと自分にとって意味のあるものになったのだ。

もちろん、そのことによって人との付き合い方も変わる。ソーシャルメディアを見るのが辛くなってきたのは、たとえば同業者の不勉強な、あるいは不用意な発言だとか、たんなる内輪揉めの悪口だとか、そういうものを目にする機会が多くなったからだと思う。悪口が辛いのではない。実際に対面したら、きっと複雑なことを考えていたり理性的であったりする人たちを、ネットで見えるところだけで人格的に判断してしまいそうになるのが辛いのだ。

もともと大学に就職しようと決意したのは、長期的な関係を築いていなければできないような「人育て」がしたかったからだ。6年働いて、卒業後も含めて長期的な関係の中で教えたり学ばされたりしてきて思うのは、長期的な関係で付き合ってこなければ、きっと仲良くなんかなれないと思うような人の、いい面も悪い面もニュートラルに見られるようになるってことだ。あばたもえくぼというけれど、たいてい好きだった人の好きだったところは、嫌いになると一番許せないところになる。でも、そういう予想も含めて長い間の関係を築くと、一番好きで一番許せないところで人を判断できるようになることに喜びを感じるし、きっと自分もそういう風に思われているんだろうなという安心感を持つことができる。

ソーシャルメディアが、今年撮った写真だとか投稿だとかをまとめて、今年のあなたはこんなんでござい、と親切にもまとめてくれる。安心するのは、その中に僕が今年ほんとうに嬉しかったり傷ついたり笑ったり泣いたりしたことは、ひとつも入っていないってことだ。大切な人との大切な思い出は、僕が自分でしっかり覚えている。ソーシャルメディアに載らないような、大切な思い出をたくさん作れたことだけで、今年は上出来ってもんだと思う。

というわけで年末恒例のあれです、「七味五悦三会」。大晦日の夜、除夜の鐘が鳴っている間に「その年に食べたおいしいものを7つ」「楽しかった出来事を5つ」「会えてよかった人を3人」挙げて語り合うという江戸の風習で、年越しまでに挙げることができたら、今年はいい年だったね、といって年を締めるという。願わくばあなたの次の一年に、「そうそう、あれは最高だったよね!」と言えるような相手と思い出がたくさん生まれますように。

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