ニューディールからネオリベへ

20150225今年はとにかく映画を見ようと思っていて、といっても年に3本見れば多い方の僕だから、頑張っても月に1、2本が限界というところなのだけど、そんなわけで2月は「ANNIE/アニー」「アメリカン・スナイパー」を鑑賞。後者に関してはちょっと評価できる自信がないので気が向いたらなにか書くかもしれないけど、前者のほうがそういう意味で気が楽だ。

なにせ僕が唯一といっていい「楽曲をちゃんと覚えているミュージカル」がアニーなわけで、作中で唄われる歌も、ついつい口ずさみながら見てしまうほど。最後には「ええ話や〜」と泣けてしまうくらいだったので、よっぽど何かの琴線に触れたのだと思う。

が、内容をよく振り返ると、そうそう感動もしていられない。2014年版「ANNIE」は、よく知られたミュージカル「アニー」と比較した時に、いくつかの大きな設定の変更が行われている。たとえば、アニーを保護する大富豪ウォーバックスの位置には、ジェイミー・フォックス演じる携帯電話会社の社長スタックスが就いている。このスタックスという男、クイーンズの貧困層出身でありながら一代で身を立てた実業家。さしずめマンハッタンの孫正義といったところだろうか。彼の会社を大きくする目的で市長選に出馬しており、支持率アップのために組んだPRエージェントのガイの勧めでアニーの里親になるのだが、という展開。

この市長選とPR、そしてソーシャルメディアでの情報拡散、炎上といった出来事は、2010年代のいまならではという感じがするし、最近は映画でもこういう描写が増えたので講義で話す際にも便利だなと思うのだけど、世界大恐慌直後の時代が舞台だったオリジナルからすると、他のあらゆる設定に影響を及ぼす変更だったといえるだろう。実際、主人公のアニーが暮らしているのは孤児院ではなく、里親制度の補助金目当てに子どもを引き取って暮らしているハニガン。キャメロン・ディアス扮する彼女は元C+Cミュージック・ファクトリー(!)のボーカルだったという触れ込みで、アルコール漬けの毎日。市の査察と独身男性の前でだけ自分を取り繕うという堕落ぶりだ。

さて、こうやって設定が変わったところを並べると勘の良い人にはすぐ分かるけど、この作品では「貧困から脱する」というモチーフをどう扱うかについて、大きな考え方の変更が行われている。よく知られた「希望を失わなければ明日は来る」というメインテーマの歌詞だけど、これは本来、ルーズベルト大統領にニューディール政策の実施を決意させるという歌だ。言い換えると「希望」とは「公共事業を通じて増大する有効需要」のことを指している。

ところが2014年版のアニーは、誰かに希望を与えてもらおうなどとは考えていない。そこで奨励されているのは、希望を失わずにチャレンジすること、成長することであり、そのような意欲を持っている人にこそ、チャリティーや慈善事業の手が差し伸べられるべきだということだ。スタックスは貧困層出身でありながら、極度の潔癖症で貧困層を毛嫌いしている、という描写にも、そうした考えはにじみ出ている。

なにより重要なのは、そもそもアニーは、僕らの知っているアニーではないということだ。オープニングから、僕らのよく知る赤毛のアニーが出てきて先生の前で作文を披露するのだけど、実際の主人公は、劇中「アニーB」と教師から呼ばれる「もうひとりのアニー」。アフリカ系アメリカ人らしい彼女は「頭に入っている」という作文を披露するのだけど、それがまさにルーズベルトとニューディールのお話なのだ。つまりこの作品では、「かつてのニューディールを当てにすることができなくなったニューヨークで、希望を失わなずに生きていくこと」が主題のお話になっているというわけだ。

分かりやすく言えばこうした考え方はとても新自由主義(ネオリベ)的だし、見る人が見れば格好の獲物だろう。確かに「希望さえ失わなければなんとかなる」と言われても、なんともならないことだってあるだろう、と思うし、希望を失ったまま明日が来なかった人だって、リーマン後にはたくさんいたはずなのだ。

映画の制作を指揮したウィル・スミスやジェイ・Zが何を考えていたのかは分からない。でも、この「ニューディールとネオリベ」の対比からは、現代のアメリカの人たちが考える「リベラル」の、ひとつの理念が見えてくるように思う。

ニューディールのような政府からの再配分を重視する立場を、リベラルに対してソーシャルと呼ぶ。そしてアメリカ社会においては、ソーシャルなものを嫌悪する風潮というのが根強くある。ピケティ・ブームに対して「え? アメリカ人っていまさらそんなことで驚いてるの?」と逆に驚いた専門家も多かったと聞くけど、そもそも「再配分が必要だ」なんて主張は、アメリカではブームになりようもなかったのだ。

経済政策や政治学の専門家でもない市井の人々がソーシャルを毛嫌いする理由は、僕にもよくわからない。ただ「ANNIE/アニー」の設定変更と、それでも失われない明るさや感動の源泉には「希望はあくまでも自分自身のもの」という強い信念があるのではないかという気がしてくる。希望は与えられるのではなく、自ら持つもの。希望を持つ人の心の芽を詰んでしまわないための取り組みは必要だが、それは万人に平等に、まして政府によって与えられるようなものではない、ということなのだろう。

僕は、それこそすべての人が自らの希望を持つべきだとは思わないけど、希望を自分で自分の中に持つこともまた妨げられるべきではないと思うし、希望や幸せが他者から与えられるものだと思いこむことが、まさにその妨げになることも、経験的に知っている。政策としてどちらを選ぶかというレベルの話と同じくらい、それによってどんな生き方を選ぶのかが問われるのだろうなと思った。ただ繰り返しになるけど、そんな難しい話は抜きにして「いいお話」だったけどね。

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