指導したりされたりという関係は、とても難しい。少なくとも、これこれのことをやってくれ、と指示するのに比べれば。指導するという行為には、相手が望んでしたいと思うことを、相手の望む方向に改善し伸ばすためのものという意味合いがあるけれど、それが実際のところ、指導する側の願望でしかないケースもままあるし、何より、指導する側もされる側も、それがどちらの願望なのかをうまく理解できていないということがほとんどじゃないだろうか。
『セッション』という日本語タイトルのついた、しかし作中どこにもジャムセッションの出てこない映画を見て感じたのは、その混濁した願望が導く先のどうしようもなさであり、音楽においてすらそれが起きるという虚しさだった。もちろん興奮しなかったわけではない。そのことについては後で書くのだけど、まずは作中における指導関係について確認しておこう。
聴くべきところのない演奏
舞台は名門音楽大学、そのジャズ科(ビッグバンド専門の)だ。そこに入学した一年生ドラマー・ニーマンが、学内きっての名門バンドを率いるフレッチャーにスカウトされるところから物語は始まる。だがそこで行われるのは、理不尽とも思える厳しい「指導」。いわく叩いたビートのBPM(テンポ)が不正確だとか、ブラスセクションのピッチが合ってないとか。特にドラムスに対する当たり方は厳しく、3名のドラマーに次々と「ダブル・テンポ(倍速)」のスウィング・ビートを叩くよう指示し、ビートをキープできるようになるまで何時間でも罵声を浴びせながら叩かせる。
だが、楽器を弾いたことのある人間からすると、この指導は理不尽であるだけでなく端的に間違っている。一般的に早いテンポの曲を演奏する場合、少し遅目のテンポで練習を始め、うまく慣れてきたところで少しずつテンポを上げる。演奏だって体力勝負だから、長い時間弾き続けていれば正確さは落ちるので、ある程度の時間内で最速のビートに到達できるようなピーキングをするわけだ。何時間も叩いているうちに250を超えるような早さで叩けるようになる、なんてことはまずない。
じゃあなんでそんな間違った指導がまかり通るのか。ひとつは、フレッチャーが指導者としてもミュージシャンとしても才能がないからだろう。作中、フレッチャーがピアノを弾くシーンが出てくるのだが、(おそらくJ・K・シモンズが自分で弾きたがったせいだと思うのだけど)お世辞にも上手とは言いがたい。またニーマンの叩くドラムはバンドの演奏にまったく合っておらず、アンサンブルという点では出鱈目だ。サントラだけ聴くとかちょっと無理だよな、と思う。
が、おそらくフレッチャーは耳だけはまとも(なつもり)なのだろう。だから自分が権威的に振る舞える、テンポだとかピッチだとかの細かい点にこだわって、バンドメンバーを理不尽に突き上げる。作中にジャムセッションが出てこないと書いたけど、まさに「正確に演奏する」というところにこだわってしまうあたりが、ジャズに限らず音楽というものの面白さを大きく削いでいると、ポピュラー音楽ばかり聴き、弾いてきた人間としては思う。
アカハラと指導のジレンマ
これは菊地成孔さんと町山智浩さんの論争の中であまり深まらなかった点だけど、この背景にあるのはやはりジャズが音楽大学(つまりクラシックの牙城)で教えられるアカデミックな、つまり権威性をともなったものになっていることだろう。ポピュラー音楽でない方の音楽が権威性を纏うことで存命し、アカデミーがそうした新しい権威を取り込みながら存命するという相互依存関係についてここで深く触れるつもりはないけれど、要するにフレッチャーのしていることは単なるアカハラなのだ。
そうやって捉え直すと、これは自分を含めたアカデミック側と、そうした人に指導される側の間に存在する、すごく難しい関係性についての作品だということが分かる。音楽として評価するなら「つまらない」で終わりだ。だが、大学という場で指導−被指導の関係があり、おそらくは単位認定をする権限を持つ指導者が、学生に何を「指導」するのか、という観点でみれば、「面白ければいいじゃん」とも言い切れないところがある。
というより、その関係性においてある種の権威主義を避けることは非常に困難なのだ。
研究の内容にもよるけれど、多くの場合、大学で指導する側に回る教員や院生は、知識の量だけでなく、その使い方についての経験が学部学生よりも豊富だ。だから「何を学ぶか」「どのように研究するか」について、あれこれと口を挟むことがある。理系の分野だと実験機材や試薬など資源の制限があるから「下っ端」の学生の自由度は小さくなるけど、僕らのような文系の世界だと自由度が高いため、「学生の興味関心」と「指導側の知識や経験」のすり合わせという過程が生じることになる。
学生の意志を無視して「君はこれこれこういう研究をしなさい」とか言うとハラスメント扱いされるという話もあるのだけど、他方で「自分の好きなようにしなさい」と放任するのも歓迎されない。だから、「君のしたいことを実現するためには、これこれのことをするのが適当だよ」というロジックで指導する必要が出てくる。もちろんこうしたやり方を「甘やかし」だと思う人もいて、自分の得意分野に関する知識や経験の欠如を理由に学生を追い込むのが「指導」だと思いこむフレッチャーのようなケースも、まあ存在するだろうと思う。
「速弾き動画」の時代に
フレッチャーの指導は、演奏面でろくな結果を出せないという点で無意味なものだと思う。だがそれはただちに「結果が出せればハラスメントをともなうシゴキは許されるのか」という問いを呼び起こす。さらに「では結果を出すとはどういうことか」という問いに至って、僕は立ち止まってしまう。この映画を見て、音楽的にはともかく、僕はとても興奮したのだ。
というのも、作中においてニーマンが要求され、実際に演奏するのは、アンサンブルという意味ではゴミだけど、技巧という点ではものすごい練習量とスキルを必要とする「速弾き」の類のドラミングだからだ。ハードロック/ヘビーメタルの速弾きギターにハマり、ニーマンと同じ年頃の青春時代にやはりひたすら速弾きの練習をしてた自分からすると、こういう音楽性とは別の評価軸で「すごい」と思わせようとする演奏は、無駄に気持ちを高ぶらせる。
実際、ときどき思い出したように「超絶速弾きを聞かせる10代の女の子」なんていう海外の動画がシェアされてくるとついつい見てしまうし、上手い下手にかかわらず、動画を見た後は自分でも弾いてみたいと思ってしまう。カンフー映画を見てカンフーの真似事をする小学生と同じ気持ちだ。フレッチャーは演奏家を育てるのには失敗しているけど、YouTubeで話題の、あるいはそこからオーディション番組のようなものに出て有名になるような、現代的な「スター」を育てることには成功したのかもしれない。
おそらく、これはサーカスなのだと思う。サーカスでは、技巧が見世物になる。アクシデントが起きることもあるけど、ピエロが出てきてこれは楽しい出し物だよ、と軌道修正をする。たぶん誰かが死んだとしても、それは決して表舞台に出てこないのだ。もちろん人が死なないのが見世物の条件なのではない。サーカスの源流には、古代ローマの拳闘士がいる。素手でライオンと戦う奴隷が食い殺されるのがエンターテイメントになったのは、それが見世物であるという象徴的な意味が共有されていたからだ。
たぶん速弾きギターの動画の女の子たちも、きっと親がメタル・ファンとかで、小さい頃からそういう技巧ばかりを練習してきた、あるいはさせられてきたのだろう。そこで親の欲望と子の欲望はもはや切り分けられないものになっている。指導-被指導関係において両者の欲望が混交し、あなたが望むようにわたしも望む、となるのは、いわゆる「ブラック」というか、単にホラーだ。だからこそ最後の理性で僕は、この作品に自分が興奮したのだとしても、それが現代的な意味で「ウケる」ものだとしても、やはり線を引いて評価したいと思う。