大学が促す「友だちづくり」?

自分がいま勤め先で手がけている仕事に関連して、ちょっとタイムリーなニュースが出ていた。

新学期が始まって1か月余りが過ぎましたが、入学する前からSNS=ソーシャルネットワーキングサービスで友達グループができているなど、学生の友人関係が変化していると感じている大学が9割に上り、人間関係の不安を解消するために相談コーナーを設けたり友達づくりのイベントを行ったりしていることが、NHKのアンケート調査で分かりました。

9割の大学 “学生の友人関係 変化感じる” NHKニュース

この種のニュースはどうしても「現代の大学生(若者)」一般を巡る大きな傾向として捉えられるし、反応する読み手の側も自分の体験に照らして色んなことを言うから話がまとまりにくい。大学関係者の中でも意見が分かれるところなので、ちょっとこの機会に自分が取り組んでいることについて書いておきたい。

「ピア・エデュケーション」の取り組み

勤め先の関西学院大学社会学部では、2014年に新校舎がオープンするのに合わせ「ピア・エデュケーション」という活動を推進している。実際には2011年ごろから始まっていたいくつかの動きがあったのだけど、それをひとつのコンセプトに統合し、2013年からは僕が中心になって企画・運営・評価を行ってきた。

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2014年4月23日の新校舎開設記念シンポジウム資料より作成

その活動は大きくふたつに分かれている。ひとつは、大学で研究を行うための補習授業、発展的教育のサポートを担う「リメディアルサポート」。もうひとつが、学習支援、学生生活支援を通じて、大学に来ること、学ぶ環境になじむための手助けをする活動としての「エンロールマネジメント」。今回報道されているような取り組みに近いのは、後者のほうの活動だ。

具体的な取り組みとしてもいくつかあるのだけど、報道に近いものだと、福岡大学が実施した新入生向けのキャンプとほぼ同じ取り組みを、4年前から実施している。特徴的なのは、キャンプの企画・運営を学生が中心になって行っていること。既に数年の蓄積がある「社会学部学生交流プロジェクト(ピア・サポート、PS)」というチームが主体となって、ゲームを通じた交流の機会づくりなどを企画している。僕ら教員・事務職員も同行はするけど、むしろ彼らの企画に沿って動く形だ。

さらに2015年からは、既に何度か開催してきた「MANABIL」という学習会の参加者を中心に「チームMANABIL」という学生チームを立ち上げ、彼ら自身が企画するレクチャーを実施しようとしている。こちらも外部講師の招聘など、彼ら自身の関心に従って進む企画を、教員・事務職員がサポートするという形だ。

なぜ大学生活が流動化したのか

こうした活動についてはこのブログでも何度も紹介しているし、正直に言うと、特に学習面に関しては僕らが何もしなくても自主的な勉強会などが勝手に転がりつつあると感じている。学生どうしの学び合いの活動なわけだから、究極の目標は教員や事務職員が何もしなくてもいい状態になること。だからこうした報道からすぐ喚起される「大学が学生を甘やかしている」という見方は、少なくとも僕らに関する限り、目指すところとは異なっている。

だがエンロールマネジメントについてはどうだろう。人によっては、大学というのは自分の意志で来るところ、勉強というのは一人で孤独に進めるもの、だから友だちづくりなど無用だ、という風に思うだろう。むろん専門分野によっては研究室単位で強いチームワークを必要とする集団的な文化が存在するところもあるので、孤立が許されないこともあるのだけど、僕自身は、どちらかと言えば「ぼっち」な大学生活を肯定するほうだ。

ではなぜ友だちづくりが必要なのか? 以下では、私見としていくつかの環境の変化について述べておきたい。

おそらく報道などを見た人でも「近年では、入学前からSNSで友だちをつくれる人とそうでない人、つまり『リア充』と『ぼっち』の格差が広がっており、大学が『ぼっち』の友だちづくりを手助けしないといけないくらい、こころの弱い学生が増えているのだ」という風に受け取る人がいると思う。現代の若者全体の状況はわからないし、何事も安易な若者につなげるなー! と声を荒らげても虚しい。ただ僕は、勤め先の状況を見ている限り「リア充格差」は問題の本質ではないという仮説をもっている。

象徴的なのは「よっ友」という言葉だろう。これは「学内で見かけると『よっ』と声をかけるだけの薄い友だち」という意味で、勤め先以外でも広く使われているようだ。よく見てみると、背景にはどうやら、学生生活全体の流動化がある。

自分が学生だった時代には、大学生が関われる世界と言っても、語学などの必修科目でできた友だち、サークル、バイト先くらいしかなかったし、またその活動も「学生」なりのものが多かったように思う。ところがどうも最近は、そういう想定を超える活動が増えている。「学生団体」という、起業やNPO活動に準じる目標を設定する「意識の高い」団体があったり、バイト先でもほとんどマネージャークラスの仕事を任せられたりすることがある。学内でも留学や「セミナー」と名のついた休暇期間中のプログラムが多数あり、そうしたものの準備に放課後を充てているケースが目立つ。

良きにつけ悪しきにつけ、こうした活動は彼らの身の丈を超えるものだから、彼らの自己効力感を高めるところがあって、結果はともかく彼らを夢中にさせるものになっている。結果が伴わないものが「意識高い系」と揶揄されることはあるけれど、正直、自分の学生時代を思えば活動しているだけ偉いと思うし、ものによってはほんとうに高い成果をあげている。他方、バイト先や筋の怪しい団体に体よくこき使われるだけの「ブラック」なケースも無数にあって、そちらの方が意識高い系批判よりはるかに重要だと思うのだけど、それはまあ別の話。

要するに「リア充」といっても、それはネットスラングが想定しているような「恋人や友だちがいるかどうか」という水準の話ではなくなっているのだ。本当に打ち込める活動がいくつもあり、文字通り24時間「忙しい」生活を送れる学生と、そうした活動に自主的に関わることなく、与えられた環境の中で受動的に過ごしている学生がいる。こうした格差は昔からあったけど、前者の関わる範囲が広がり時間的な拘束が長くなるにつれ、後者の孤立が深まっているのではないか。

というのも、リア充というのは基本的には人当たりがよく、場の中心になるような存在なわけで、その人がいれば、消極的だったり人と接するのが苦手だったりする人でも自然とどこかのグループに入ることができたからだ。こうした人たちの流動性が上がり、人間関係のハブが失われると、残った人たちとの関係も含め、大学全体の人間関係が流動化する。「よっ友」的なものというのは、一方にこうした流動化の、他方にSNSなどによる「弱いつながり」の保持手段があることで生まれたのだと思う。

孤立していたっていい、のか?

では、その関係の流動化は問題なのか。個人としてはまだ答えが出ていない。既に何度か書いたように、学生どうしの人間関係が学習に与える効果については、研究の世界でも実証されつつあるし、勤め先においてもそれは当たっているようだ。だが学生生活全般となると、そこまで大学がパターナリスティックに踏み込むべきなのか、という気持ちもある。以下では、孤立を巡る問題について取り組みが必要なケースと領域について考えてみたい。

まず大きいのは「就活」だろうか。なんでも就職を出口にするのは好きではないけれど、近年の採用市場においては「筆記と面接」という従来の方法に加え、グループ・ディスカッション(15分程度で与えられたテーマについての結論を出す)や、より長時間での共同作業が求められることが増えている。採用選考のスケジュール変更以後は、インターンシップを通じた囲い込みも公然化しており、そこでは自ら応募する積極性や共同作業に参加し貢献する力が求められる場面が多い。そんなことをしていなくても別になんとかなるのだけど、やる人はやる、という状況で、アクティブな人のほうが目立ってしまうのは事実だ。

こうした変化と呼応するように、大学の学習にも、黙って座って話を聞くのではなく、自ら意見を組み立て発信する力を求めるスタイルの授業が増えつつある。特に私立大学の文系学部は伝統的にマスプロ教育で、ただおとなしく教室に座っていさえすれば誰にも居場所があったのだけど、「アクティブラーニング」だの「反転授業」だのと、学んだことを活かす創造的な活動が大学の価値の中心になると、アクティブな人とそうでない人の間の差がどんどん開いていく。勤め先くらいだと、その格差がどうしても大きくなる傾向にあるのは実感するところだ。

だが何より問題なのは、そうしたスタイルのカリキュラムの広がりに対して、多様な出自や経験が活きるような、そうした人たちに配慮しながら進められるような意識が生まれていないことだ。ある人がディスカッションの場で発言できないのは、単にコミュニケーションが苦手というだけではないかもしれない。不登校だったとか、いじめられていたとか、民族的・性的にマイノリティであるとか、そういうことを隠して「リア充」することが「アクティブ」だというなら、それは本来の趣旨からして間違っているだろう。

どんな人であれ、その場にふさわしい能力を発揮すれば匿名的な存在であっても居場所が確保される、というのは、ある意味で「メリトクラシー」的だ。そして大学という場所、そのカリキュラムは、小手先をどういじろうと根幹においてメリトクラシー的だし、できればそういう性格を維持し続けるべきだと思う。だが他方で、そうした「成績モノサシへの一元化」の外側に、出自や活動、発想の多様性で居場所があるような取り組みも、あってしかるべきだと思う。

個人的には、いま取り組んでいる活動が自分の大学時代にあったら、回れ右して絶対に関わろうとしなかっただろう。だがそれは、自分にある種の「はみ出し者」意識(中二病ともいう)が自覚的にあったからだ。人間力を競う争いなら御免被りたいけど、十把一絡げの規格品みたいな人だけ相手にしていればいいのだ、という官僚主義も、やっぱり勘弁して欲しいのだ。

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