ばら撒かれるエンゲージメント

マーケティングの世界には、独特の横文字語がたくさんある。ありすぎて数えられないくらいあるし、だいたいが適当に使われているので、それが意味するところもノリでしか理解されていない。英語圏で利用される用語である場合にも、もとの意味と違っていることもあるし、そもそも英語の意味と全然違うじゃん、みたいな使われ方をするものもある。

エンゲージメントという言葉が、その中でも特に気になる。辞書サイトによると、契約とか婚約、雇用といった意味があるそうだけど、マーケや広告の世界においては、ソーシャルメディアへの投稿に対する反応率のことを指す。日経BP曰く

例えばFacebookでは、つながりの度合を把握するため「エンゲージメント率」を使用するのが一般的。エンゲージメント率は、1回の投稿に対していいね!やコメント、シェアがいくつあり、ファン数全体の何パーセントに当たるかを表す指標だ。計算式は、「(いいね!数+コメント数+シェア数)÷投稿数÷ファン総数」である。

エンゲージメント率の標準値は“1%”だとも言われる。消費者の関心度が数値化され、評価、分析の対象にできるため、非常に便利な半面、注意すべき点もある。その数値に一喜一憂したり、過信しすぎてはならないのだ。

ある投稿に「いいね!」がついたとしても、個々の動機は千差万別。単純にパーセンテージが高い、低いだけでなく、ユーザーとの関係性を正しく理解するには、どのようなコンテンツに、どのタイミングで、どのようなコメントがついているのか、数値以外の文脈を踏まえた解釈が不可欠である。

ということのようだ。

広告というのが基本的に数字で表される反応によってお金の発生するビジネスである以上、上記のような数字を測定することがおかしいとは思わないし、それがユーザーの心理を質的に反映するものでないことくらい、誰でも知っている。ただそれに「エンゲージ」という言葉が使われることの意味にはちょっと敏感になっていいかもしれない。

エンゲージ、婚約、契約。この言葉に僕たちは、とても深い絆や関わりというイメージをもっている。他方でここでエンゲージ率の測定に使われるのは、流れてきた投稿に「いいね!」を押すといった振る舞い。メディアのアーキテクチャによって促されるこの種の振る舞いの軽さに対して、それをすごく重い出来事であるかのように表現してしまうのは、この業界の独特の文化だと思う。

それが可能なのは、まさにインターネット、あるいは情報の世界だからだ。ある資源が誰かに用いられるとなくなってしまうという性質を「競合性」と呼ぶけど、ネットの情報は多くが非競合的だ。知識全般に言えることだけれど、僕が覚えたことを誰かに話したからといって僕の蓄えた知識は減らない。ある投稿をシェアしたからといって、他の投稿を含めシェアできる投稿の総数が減ることはないし、押すだけなら一秒もかからない「いいね!」も同じだろう。

購買行動はそうではない。お金や時間は有限だし、その中で僕たちは夕飯を抜いてゲームに課金するべきか、音楽を聴く代わりに本を読むべきか、といったことを比較検討している。他方でソーシャルメディアの記事だって、ちゃんと読むものとそうでないものがあるはずなのだけれど、そのどちらにも「いいね!」して、よく考えずにシェアするなんてことがある。

おそらく広告の話だけではなく、ソーシャルメディアにおける人間関係、それはもはや友だち関係に限らないので「ソーシャルグラフ」という言い方のほうが適当だと思うのだけど、それらにだって言える話。誰かの投稿を「いいね!」することが、別の誰かの投稿に同じことをする妨げにはならないし、そうやって僕らは薄く広くエンゲージメントをばら撒くことができる。「ブリッジング」と「ボンディング」っていうけど、薄く広く顔つなぎする手段としては、ソーシャルメディアはとてもいいアーキテクチャなんじゃないかと思う。

ところが僕たちの社会では、特に社会関係が相対的に狭い若者を中心に、ソーシャルメディアは「友人関係」に持ち込まれるものになっている。ときに「強いつながり」を求める友人との関係に「弱いつながり」の手段として入り込むソーシャルメディアは、その辺の微妙なズレを孕みながらも、どうにか決定的な破綻を迎えずにやってこられた。

でも、昨年からずっと言い続けている「ソーシャルなものの終わり」のいち現象だろうか。いよいよ「エンゲージをばら撒くソーシャルの仕組み」と「友人関係」は、ここに来て別のものになりつつあると感じている。すなわち、相手との関係を、メディア上で非競合的に行われるエンゲージメントではなく、競合的で排他的な振る舞いの度合いによって推し量るような時代が、ふたたび訪れているのではないかということだ。

以前からそうだったのかもしれないけど、「歩きスマホ」の代わりに、イヤホンで音声を聞きつつトランシーバーのようにiPhoneを構えながら通話している人をよく見かけるようになった。「通話」という行為は、マルチタスクの許容度が低いという点で、お互いの時間や環境に対する競合性が相対的に強くなる。あるいは昨年から取り上げているイベント消費。誰かと一緒に行動するというのは、その相手の時間や気持ちを、自分との時間の中に結合してしまうことを意味する。LINEの既読無視が気に入らないのは、まさに相手に対する(重い意味での)エンゲージの要求を断られた気持ちになるからだろう。

ポスト・ソーシャルと呼んでいる時代の人間関係には、平たく言うと「相手をどのくらい独占できるか」という競合性による序列が生まれつつあるのではないか。一緒に遊びに行ってくれるかどうか、夜中の長電話に付き合ってくれるかどうか、長時間のミーティングに参加するかどうか、他の人にリソースを割いていないかどうか。こういう、当たり前といえば当たり前の「独占欲」を、臆すことなく発露するのが、いまという時代になりつつある。

友人関係だけではない。たとえば前のエントリで書いたように、学生たちの人間関係は流動化する一方で、大学に限らない、特定の集団に深くコミットし、そこから出てこないというケースが目立つ。というより、流動化する関係の中からそういう「居場所」を見つけ出すことがリア充の証になっており、また組織の方でも、時間的・精神的に相手を強く束縛することで、その人の(強い意味での)「エンゲージメント」を獲得できると考えるようになっている。要するに、僕たちは束縛したがっているし、されたがっている。

それが「ブラックな組織への自発的関与」をもたらす可能性もあるとはいえ、さしあたってのカギは、ポスト・ソーシャルというのが「ネットかリアルか」といった関わりの手段や、「薄く広くか狭く深くか」といった関わりの範囲の話ではなく、どのくらい独占的に相手からの関わりを獲得できるかといった指標で扱うべきものになっているということだろう。マーケティング的には、いかにして「あなただけ」「わたしだけ」という感覚を提供できるかという話だし、人間関係でいえば、スマホをオフにして独占的に関わることを許す相手がいるかどうか、という話になる。ネット広告ビジネスが薄く広くばら撒かれるエンゲージメントの数値でお金をやりとりするモデルから離れることは難しいだろうけど、別の動きは、もう起き始めているように感じる。

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