対談:鈴木謙介×東浩紀「1995/2015――いま人文知は必要か」

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鈴木謙介×東浩紀「1995/2015――いま人文知は必要か」 @hazuma
前売2600円(1ドリンク付き)/ゲンロン友の会会員証または学生証のご提示で2100円(1ドリンク付き)に!

詳細
当日券は3100円 (1ドリンク付き)です。ゲンロン友の会会員証または学生証のご提示で2600円(1ドリンク付き)になります。
友の会会員限定席を複数予約される場合は、お連れの方が会員でなくても結構です。
お席はチケットの申し込み順ではなく、当日会場にご来場頂いた順にご案内致します。
開場時間はイベント開始1時間前の18:00となります。

【イベント概要】
6月28日、東浩紀が6年ぶりに『文化系トークラジオ Life』に出演した(電話出演)。
大学における文学部の価値が問われ、人文知そのもののプレゼンスが低下するなかで、現代における人文知の役割はいったいなんなのか。そして、それは本当に維持可能なのか。
2006年から『Life』のパーソナリティを務め、独自の場を築いてきた鈴木謙介と、2013年にゲンロン/ゲンロンカフェを立ち上げ、新たな言論の拠点を作ろうとする東浩紀。かつてGLOCOMでともに研究員を務めた2人が、この20年の社会変化を踏まえたうえで、いま人文知が果たすべき使命を問い直す。


既に告知されている上記イベントですけど、なんかこう、開催に至る経緯というか、なんでそんな話をするんだろうってことを、あまり整理せずに書いてみますね。

もともとは、2015年6月のLifeで人文・社会系の知をテーマにしたら、東さんが電話出演してくれて、そのときに色々と話したのが発端ではあるんですけど、実はこの回を放送している時から、自分の中のうまくまとまっていない思考にもどかしい思いがあって。

人文知というのは知ですから、文系とか理系とか関係ない。数学だって哲学になるし、理工系の技術を社会還元しようとすれば、絶対に社会に対するセンスが必要になる。強いて言うなら、あらゆる人に当てはまる原理を、勉強さえすれば誰でも理解できるモノサシで見つけ出していく「知能」に対して、ヒューマン・ユニバーサルというか、人類に普遍的に適用される文化や倫理について考える「知性」というものが、人文知の出発点にあったわけです。

ところが20世紀の人文知というのは、基本的にこの普遍性をどう解体するか、多様性の中でいかにして共生するかということを、いわば「脱人文知」的に思考してきた。そこには確かに近代までの人文知が持っていたいくつもの問題に対する鋭い批判があったけれども、それが社会の基本的な理念として認められるに従い、人文知自身の足元を掘り崩すことにもなってしまったんじゃないかと。

ひとつの分かれ道は80〜90年代の「リベラル−コミュニタリアン論争」だった気がします。普遍的な正義か共通善かという論争は、まだしかしある種の普遍的な知を前提にした論争だったと思うけれど、おそらく事実として世界は、普遍的な正義の体現者として手を上げたアメリカに対する反感を募らせる一方で、人類の倫理的な選択として「多様性の尊重」を選んだ。そして、それは少しずつ、具体的な制度としても結実されていった。

「普遍的な正義」の議論がどんどんややこしくなっていく一方、現実の政治としては「多様性の尊重」に対して「それではこの社会が壊れる」という話が出てくるようになった。アメリカでは英語の話せないヒスパニックの増加が共和政の理念を危機に晒すと批判され、同性婚は伝統的な家族観を破壊するとも言われた。僕はそのどちらにも賛成しないけれど、問題はそこじゃない。ここで争われているのが「正義」対「善」ではなく、「どの善が優先されるべきか」でしかないことが問題なんです。

「善の優越」をめぐる泥沼の争いは、おそらく政治的には「落とし所」という形で決着する。でもそれを決定する審級は、実はちゃんと機能していない。むしろ「人類共通の倫理の共有とか無理なんじゃね?」という諦念が、スタート地点にある。だから僕たちは、せめて普遍的に見える「原理」に依拠する形で、どの善が優先されるべきかについて考えようとする。その際たるものは「経済原則」だと思いますけど、こうした「価値中立的な知が、善の優越について判断する」という状況が、さらに人文知の居場所を小さくしている。

そりゃそうでしょう。普遍的な正義を模索すれば「それでは抑圧される人がいる」、合意を模索しようとすれば「アルキメデスの点が前提にされている」、普遍的な原理によって裁定することに異議を唱えれば「対案もないのに足を引っ張る」となるわけですから。そしてその批判も、おおむね正しかったりするし。国費を投じるに値するかという論点とは全く別のところで「人文系は口を出すな」と言いたくなる場面は、僕にだってありますもの。

じゃあそういうものがいらないのかというと、それはそれで困っている人たちがいるんですね。たとえば最近、人工知能研究者の松尾豊さんとお話したんですけど、松尾さんは一貫して、人工知能の発達によって生じる社会課題に対して、それを制御する社会的合意が必要というお考えです。言い換えると、技術者の中だけで倫理について考えても限界があるから、オープンに議論されることが必要だと。

まったくその通りだと思いますし、人工知能以前に、ウェブについてそれをやったのが、東さんや僕がやっていたisedでした。でもそれ以後、技術的な進化やビジネストレンドの移り変わり、政治的状況の変化もあって、いろんな問題が生じているにも関わらず、いわば倫理問題については「投げっぱなし」の感があります。ウェブ技術に関して言うと、たとえばステマやネイティブアドがなぜ「いけない」のか、というのは、消費者の不利益などの水準を越えた倫理問題でもあるわけですが、そこをすっ飛ばすと「儲かるって言ってる人がいるんだからいいんじゃね?」で押し切られてしまう。反対するロジックも「なんか儲け方が汚いから気に食わない」という好き嫌いの話になっちゃう。

同じようなことが、それはもう無数にあるわけです。にもかかわらず、人文知の側でそうしたアクチュアルな課題に応える動きは鈍い。もちろん個々の人たちに関心はあるとか、経済状況がそれを許さないとかいう話は分かってます。でも、たとえば「宗教」がそうした倫理を長く担ってきた欧米や、あるいはその影響力がまだ強い他地域とくらべても、日本においては、その種の主体の力が弱いので、人文知を担う人がそこから降りると、もうただの「儲けたもの勝ち」になってしまう。

おそらくは、人文知がありとあらゆる問題に口を出しても、技術や政治・法制度、経済原則といったことを基礎教養として持っておかないかぎり、対話もできないし太刀打ちもできないでしょう。だから人文系って、これから一番勉強が必要になる分野なんだけど、先を歩くべき僕らもその意味で勉強が足りない。他方で、既存の「価値中立的な原則さえ示せば、あとは個人が自分の意志で選択できる」という前提が成り立たない課題・領域も増えつつある。限られた資源の中で、親の介護を見捨てて子どもの教育に投資することは許されるのか、低開発国への支援を削減して自国民を保護すべきか、公共的な仕事を担う人は24時間常に羽目をはずしてはいけないのか、思春期までの学習態度と成績で将来が振り分けられるのは許されることなのか。主に「一度仕組みを作ると、誰かが有利になって誰かが不利になる」分野において、僕たちはたくさんの選択を迫られています。

それをここで結論づけてしまうのは、とてもむずかしいことだと思うんです。たぶんそのテーマについて話しても、生勉強では専門家から袋叩きにあうでしょう。でも、「こういう選択があり得る」ということについて、適切な情報さえ与えられれば判断できる(気になる)、というのが人文知の魅力のはずです。むろんそこには好みもあるし得手不得手もあるけれど、できれば今回の対談では「この20年で何が通用しなくなったのか」「これから何が議論されるべきか」くらいまでは話せるんではないかと。

といいつつも、すべては蓋を開けてみるまで分からないので、僕としてはそんなことを考えてますよということでしかないですし、2ヶ月もあれば状況が変わっているかもしれません。でも、楽しい場になることを期待しています!

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