「独占」について―ポスト・ソーシャル時代の親密性

雑記

「独占」というキーワード

明確なエビデンスと厳密な検証でものごとを考えるというよりは、複数の同時多発的な出来事に同種の構造を見つけ出そうとするのが、自分の思考法だと思っている。それはあくまで閃きのレベルの話でしかないのだけど、そんな感じで頭のなかにキーワードとしてずっと引っかかる言葉というものがある。今週末放送のLifeの「ブロック化」は、打ち合わせしながら思いついたものだけど、たとえばこのエントリでも書いた「流動化と囲い込み」の話にひきつけて言えば、いま一番気になっているのが「独占」という振る舞いのパターン、ないしそこから派生している現象だ。

「独占」とは、人間関係が流動化し、薄く広くつながることが可能になった時代において、「狭く深く」つながることを強要したり、それを可能にする仕組み(アーキテクチャ)を頼ったりする行動を指す。古いところで言えば、独占欲が強い男(ソクバッキーとか言ってたね)なんかが典型だけど、恋愛にかぎらず、「この場においては私だけを優先しろ」という宣言は、実は頻繁に目にするようになっている。

たとえばこの8月、早稲田アカデミーの合宿で発生したという盗難事件。それ自体はずさんな話だけど、ポイントはそこじゃない。この合宿においては、財布も携帯電話も没収されるのだということに気づかなくちゃいけないのだ。なんせ夜間、宿泊している部屋ごとにまとめて「預かった」というのだから。その理由は「勉強に集中するため」ということなのだろう。やりすぎのようにも思えるが、僕らだって授業中にスマホを触ってたら注意するわけだから、質的にはさほど違わないのかもしれない。

僕の枠組みで分析するとしたら、こうした出来事の背景にあるのが「多孔化」だ。既に本でも書いていることだけれど、多孔化とは、現実の空間を共有しているものの、情報機器によって異なる空間とつながることができるようになったために生じる、「現実空間の意味に孔が開いている状態」のことだ。

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本の中では最終的に、物理空間の特権性が必要になる場面、たとえば公共的な意味を共有しなければならないような儀礼や祭典において、それがどのように回復できるかについて考えていたのだけれど、その手前の段階で論じていたのは、こうした多孔化が進むと「近接性と親密性が独立の要素になる」という話だった。簡単な言い方をすると「一緒にいるからといって仲がいいとは限らない」というのが、多孔化時代の親密性なのだと。

いま起きている「独占」という現象は、こうした近接性と親密性のアンバンドリングに対抗する手段なのだと考えることができる。近くにいる以上は親密であるべきだ、親密な関係にあるわたし以外の人とは付き合うな、というわけだから。

というわけでこのエントリでは、数ヶ月間、断片的に考えてきた「独占」という現象について考えたいのだけれど、先回りしておくと、「え、だって最近はLINEで巨大なグループが発生してて、会ったこともない人との交流とかが普通になってるんでしょ」という話(参考1)(参考2)については、別立てて考えるところかなと思っている。というより、独占にせよLINEグループにせよ、似たような動機の構造をもつ行動は以前から観察されていたわけで、僕が興味を持っているのは、動機の変化ではなく、同じ動機が異なる条件のもとでどのような結果につながるのか、という点なのだ。

親密であるということ

そもそも親密性を近接性の相関項として考えるということじたいは、歴史的に見てそれほど自明なことではないのだけれど、現代では私たちの多くが、「物理的な距離の近さ」と「心理的な距離の近さ」はシンクロすると考えている。ところがモバイルなコミュニケーション手段の登場で、「デート中に恋人がスマホをずっと見ているのが不快」といったような、「近接性に割り込む親密性」の問題が登場してきたわけだ。

実際には近い距離にある人との間に、容易に別の関係が割り込んでくるというジレンマの中で僕たちはどんな選択をとるか。解決の方向は3つだ。ひとつはスマホを見ない、つまり近接性が親密性を担保するように、その他の手段を遮断するというもの。恋人ができたり仕事を始めたとたんにSNSへのアクセス頻度が激減する「トゥルーリア充」的なものもあるし、半ば強制されて、という場合もあるだろう。

ふたつ目は、逆に親密性と近接性のバンドルを諦めるというもの。恋人と一緒にいても、他の関係がガンガン割り込んでくるけど、もうそれは気にしないというか、お互いに断片化された複数の関係に割り込まれることを諒解していこうという形。たまに「スマホの害」みたいな感じでシェアされてくる海外の動画なんかを見ていても、こうした感覚が広く受け入れられているとは思えないけれど、まあこれからは分からない。

みっつ目は、より社会学的な立場だ。つまり、「関係に割って入るものがいる」ことを可能性として認めた上で、それを実際にどの程度認めるのか、割り込まれたとしても、自分がそうしたものに対して、いかなる理由で、どのような特権性(特別な相手であること)を持っているのかを明示的なものにしていきましょうというものだ。

本の中で論じたことばを使うならば、親密な関係は、今後はよりいっそう「構造的」なものから「対人的」なものになる。恋人だから、家族だから当然のように他より優先してもらえるのではなく、恋人なのだから、これは許されるがこれは許されない、といったことを自覚的(再帰的)に決定し、行動しなければならないというわけだ(これを「純粋な関係性」などと呼ぶ)。

すごく簡単な言い方をすれば、これからは親密な相手との関係を維持するためには、自覚的にケジメをつけていかないといけなくなるのだけど、その基準は個々の関係の中でしか決められず、絶対的なものはないということだ。だから「親密である」ためには、その人たちの間でルールやケジメについての相互諒解や取り決めをしていかないといけなくなる。

おそらくは、そうした「めんどくさい」話し合いがイヤだという人は、自然とその基準が一致する相手に魅力を感じるのだと思う。でも、世の中はそうそううまくはいかないわけで、そこで登場するのが、相手を自然と「独占」できるアーキテクチャを利用するという振る舞いだ。

「独占」のためのアーキテクチャ

よく思春期くらいの女の子が、一緒にトイレに行く相手を制限しあうことで友人の中から相手を独占しようとする。「独占」のためのアーキテクチャとは、そうした行動や取り決めが自然と発生するような仕組みを指す。

たとえば「電話」。電話という行為は、端末を耳に当ててコミュニケーションしなければならないという点で、スマホによる「ながら作業」を制限する。これがテレビ電話(ビデオチャット)になると、相手の時間と注意はほぼ全面的に相手に独占されることになる。こうしたマルチタスキングをいかにして自然に禁じられるかが、「独占」のアーキテクチャの利用可能性を左右する。

恋人どうしであれば、デートの回数や奢り奢られの金額なんかも関係するかもしれない。これまではジェンダー的な非対称(甲斐性)の表明だった「男が奢るもの」的な規範も、場合によっては「他の人にお金を使わせない、使っていないことの証明」として求められてしまうかもしれない。プレゼントの金額とか、パーティーのためにかけた手間暇なんかも似たようなものになるだろう。

そのように考えるなら、友人関係においても「親密さの表明=独占的に相手にリソースを割いていることを示すこと」という等式が成り立つかもしれない。それは言葉としても出てくるだろうけど、たとえば一緒に遊びに行く(それを写真に撮ってSNSに公開する)ことだとか、準備や共同作業が必要なことを一緒にやるとか。

こうした傾向を敏感に感じ取っているのは、当の若者たちではなくて、彼らに活動してもらう学校や企業の側だろう。大学の演習でも、学生団体の活動でも、企業インターンでも新人研修でも、要するにそこで要求されているのは「その活動にロイヤリティを示し、独占的にリソースを割くこと」だ。そして、そのような「独占」を得られる人が真に信頼されていると認められるし、その承認の証として、ありがちな「集合写真+タグ付け」みたいなアーキテクチャが利用されている。

昨年から注目しているイベント消費やソーシャル離れなんていうのも、その延長で考えていい。Instagramだけは伸びているそうだけど、あれも「自分の日常をおしゃれに演出するツール」として利用できるのはごく一部で、たいがいは芸能人の写真を見るツールとして、また別の一部が「友達に感謝するツール」として利用しているのだと思う。というのも、無条件に右から見ても左から見てもリア充、という投稿は端的に嫌われるからで、それよりは感謝すべき人がいるとか、感謝されているということ、言い換えれば「リア充であること」よりも「誰かを独占していること/誰かに独占されていること」こそが大事になっているからだ。

「mixi時代」に回帰するインターネット

そんなわけで、この延長にはたとえば「独占」のアーキテクチャとして、イベントだとか観光だとかっていうのが今後伸びてきますよねとか、シェアしていいねされる=薄く広い承認の獲得ではなくて、独占されていることをアピールする設計が大事なんですよとか、ビジネスだと思えば言いたいことはたくさんある。でも僕が気にしているのはそういうことではない。有り体に言えば、ネットとか人間関係とか、こんなに面倒でつまらないものだったっけ、という感覚が、どうにも拭えないのだ。

Facebookの最終ログイン時間をチェックしてメッセンジャーしていいかどうかを判断したり、LINEのグループの動き具合を気にしてみたり、テーマパークの行列に並びながら、話が途切れたところでセルフィー撮ったり、そんなことのひとつひとつが自然と僕らのコミュニケーションの中に埋め込まれるようになっている。そうした振る舞いが生み出す評価を獲得することが求められている。

なんだか、いつの間に世の中は初期mixiの時代に戻ったんだ?と思う。あの頃mixi中毒なんて言われてた人たちの間に起きていたのは、SNSによって急に接近した距離感の中で、自分の「ホーム」(当時はホームページを持つことのハードルも高かった)という領域に入り込んできただけの他者に、それこそ我が家のような最大限のおもてなしと気遣いを期待して疲れてしまうということだった。Twitterのようなタイムライン方式のソーシャルメディアが普及してきたことで、全部に事細かに目を通したり返信しなくていいという話になったと思ったのに、気づけば既読スルーで傷つくだのログイン中なのに返信がないだのって気にしている。

薄く広くつながるアーキテクチャの中で、大切な人を明示的に独占できないと辛い、というのが、ネット社会の大きなジレンマになりつつあるのかもしれない。それがお互いに想い合う関係であるなら、そのように取り決めるのも構わないだろう。でも、他人であるはずの相手を独占するとか、まして独占していることを自慢するとか、そんなの無理な相談じゃないだろうか。

むしろこれからの時代は、企業だとか歌手だとか大学の先生だとかが、自分に対して強い独占を強いてくることになるはずだ。そのとき大事なのは、独占されることではなく、不要な独占から身をかわす力のはずだ。なぜって僕たちの社会は、独占し合う関係と他人の間にある関係を基盤に成り立っていて、その人たちの協力によって回っているのだから。ソーシャルメディアが真に「ソーシャル(社交的)」なものになるためには、そういう前提に立つことが必要なんだと思う。

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