水と器

僕の周りには、専門職だとか専門スキルのある人が多いせいか、好き嫌いの基準がはっきりしているというか、割とどんなことにでも「え、あれつまんないじゃん」「あんなのダメでしょ」と言えてしまう人が多い。単純に尊敬するのだけど。

ものごとの判断基準が、はっきりと自分の中にある人というのは、何がなぜ「いい」「わるい」なのかは説明できなくても、生き方において迷うことが少ない。まあ、「いい」ものが手元に残らなかったり、「わるい」はずのことを排除できなくてストレスを感じることはあるかもしれない。

山田玲司の『Bバージン』に出てくる「女は水みたいな生き物だから」というセリフが好きで(もちろん、そんな器用で生きやすそうな人に出会ったことなどないのだけど)、自分のことをよく水に例える。器があれば、その形に変化し、なければ、どこかへ流れていくか、蒸発して空気のような存在になってしまう。事実なのか願望なのかはともかく、そういうものだと思っている。

最近は「おしごと」とか「しゃかいてきたちば」といった器を与えられることが多くて、その範囲においてはあまり迷うことなく判断できることも多い。実際にマネジメントみたいなことをすると、自分のジャッジが必要になる場面は無数にあるので、迷いなく決断できるだけの「構え」は常に要求されているわけだし。

ところが、これが「研究」とか「趣味」とかいう話になると、「いい」とも「わるい」とも言えなくなってしまう。ダメとされているものでも、世の中の目に触れる仕事になっている以上は、どこかにその理由があるわけだし、判断が不要なレベルでダメなものは、例えば法とか倫理とか、自分の好き嫌いを超えた水準で問われるものだと思うし。

寛容、というのとも違う。寛容、つまり寛(ひろ)く容れるだけの器の大きさというか、懐の深さ、あるいは、それによって自分さえも変化する余地があるというのが寛容というのだとして、そこには「寛容たるべし」というメタ基準が存在している。水は器の中に入るものなので、場面によってはそのメタ基準さえ放棄する。器を選ぶくらいの意志は、あるのかもしれないけれど。

『聖なる天蓋』という本を読んでいた時に、あれは、宗教が聖なるものによって個人を位置づける役割を果たしていて云々という説明をされたのだけれど、それは結局、人からものごとを考える現代の感覚なのだと思う。世界の説明は、世界の説明でしかない。お前がどうあろうと、世界はこうなのだというのが、天蓋としての宗教の果たした役割だったはずだ。

こういうことを考えたのは、以前のブログで本にも書いた多孔化の図を載せたのだけど、それを見ていて、これって天蓋としての「大文字の社会」をどう呼び出すかって話にも読めるのだよな、とあらためて思ったから。あまりそういう気はなかったし、小文字の社会(会社と家族)の回復を通じて大文字の社会へと人びとを組み込んでいく動きに警戒が必要だという認識は共有するけど、器もなしに生きられる人ばかりでないことも、また確かだと思う。

入る器を選べない人たちが、しんどい時代になるだろうな、とぼんやり考える。どんな器にでも入れます、と宣言しつつも、うまく形が合わなかったり、入ってみたら居心地が悪かったり。せめて、いろんな器に入ってみせることで、器の形や居心地を伝えられたらという気持ちはあるけれど、入ってみないとわからないのも事実で。

そんならいっそ自分が器になればいいというのも、また別の正解。100年壊れない器をつくるのは誰にとっても難しいことだけど、さしあたり数年でいいのなら、そういう器になれる人はたくさんいると思う。らったった、らったった。足りないかけらを、さがしにね。

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