公共に開かれるデザイン

世間的にも、オリンピックのエンブレム使用中止というニュースはインパクトが大きかったようで、僕のところにまでコメント依頼の電話がかかってきた。残念ながら時間が合わずにお断りしたのだけど、自分なりに関心のある話題でもあり、またマスメディアだと「ネットで叩く人たちの分析」というお定まりのストーリーにはめ込みになってしまう可能性もあるので、あまり整理せずに考えていることを書き連ねておきたい。

まず、デザインそのものについては、当初から好みのものではなかった。デザインのセンスがある方ではないけど、院生時代、自分のデザインで学費くらいは稼いでいた身としては、ツッコミも入れたくはなる。少なくとも大会シンボルとして考えるならば、誰もが見た瞬間に意味を理解できるものでなくてはならないと思うし、まして世界的イベントである以上、あそこまで抽象化する必要があったのかは疑問だった。ただ、話は「パクリ疑惑を追求するネット」対「パクリかオリジナルかという論点は不毛」派と「デザインとか業界を分かっていればあれはパクリじゃないって分かるよ」派の連合というアングルに収斂していったわけで、この時点で「そういう話じゃないんだけどなあ」という感じで、ちょっと食傷気味になっていた。この点については、Lifeでも話した「ブロック化」の問題。

ではどういう論点が重要なのか。既に指摘している人もいるけれど、本件を含め、オリンピックのプランニングについては、特にデザイン周りでの不評や批判、ごたごたが目立つ。エンブレム以外だと新国立競技場と、観光ボランティアのユニフォームだろう。個別のデザインについては好みもあるし、ごたごたしている理由もひとつだけではないだろうから論評を避けるけれど、この三者だけとっても、オリンピックに関する統一的なコンセプトやデザインガイドラインがないことは明らかだ。さらに言うなら、どれも「プロのデザイナー」がデザインに関わっており、その名前が前面に出ていることも共通している。

おそらく問題なのは、この「全体を束ねる理念もないまま」「個別分野のデザイナーが自分の仕事をする」という体制だ。というのも、近年の「シビックプライド」に見られるように、都市の公共的な問題については、行政や自治体主導ではなく、市民参加型のデザインプロセスを通じて、市民が納得できるデザイン、「自分たちが主体的に選び、関わったと自覚できる都市政策」を目指すという手法が広がりつつあるからだ。ネットの批判云々、業界のムラ構造がどうのという話ではない。本来、都市開催のイベントで市民を置き去りにして、権威あるデザイナーの威光を借りようというのが、未来志向を欠いた進め方だったのではないか。

シビックプライドと都市政策については、アジア太平洋研究所のレポートがよくまとまっている。少し長めに引用しよう。

市民のために都市の競争力を高めるために実施される数々の高度な政策やその効果が市民の実感として受け容れられないという問題である。その結果、政治的な不安定や政策に対する市民の不満は高まっていくという悪循環が生じているのである。なぜこのような問題が起きるのか。(中略)

グローバリゼーションに対応した都市政策やクリエイティブ都市論、規制緩和を柱とした都市再生政策といった一連の流れは、都市を支えるエンジンとしての機能強化という観点からその意味は理解できるものの、都市で暮らし、都市で働く多くの人々の日常生活からすれば、これらの政策は縁遠い存在なのだ。これらの政策の存在によって、目に見えて生活水準が向上し、治安が改善され、豊かな生活が実現できるということも現実にはないであろう。 市民の立場からすれば、生活を取り巻く身近な問題の解決や生活水準の向上、そして自分の暮らしの充実ぶり、豊かさこそ専らの関心事であろう。しかし、近年の都市政策のながれは、都市の置かれる環境が厳しくなればなるほどその距離は市民から遠ざかり、その結果評価されないという悪循環を抱えているのである。(中略)

では、これからの都市政策とはどのような方向に進むべきなのであろうか。(中略)

実感から遠く、生活や都市活動のリアリティとは直接関係の見えにくい崇高な将来の都市像を描くのではなく、多方面に政策効果の期待できるプロジェクトを構想し、それらを対外的な評価や市民との対話を通じて柔軟にマネジメントしつつ、実感が得られる成果を提示することで、現状の都市政策の抱える課題を解消していこうとする考え方である。

レポートにもあるように、アムステルダムやバルセロナといった都市がその代表とされているが、たとえば東京オリンピックのような世界イベントを期に、東京都民を巻き込んだコンセプトデザインや、それをデリバリーする個別分野のデザインという方向はありえたはずだ。

僕自身の体験したところで言うと、東京に暮らしていた頃、家の目の前が区のスポーツ施設だったのだけれど、そこに毎日のように通っている高齢の女性が、「東京オリンピックを実現しよう!」という、どこで入手したのか分からないゼッケンをつけてトレーニングしていた。おそらく誘致が決まるまでの数年間、東京マラソンの盛り上がりなんかも含めて、東京にはある種の一体感や機運のようなものがあり、それは十分に活用できるリソースになっていたはずだった。今回の騒動は、その熱を一気に冷却してしまったという点で、数字には現れないけれど、とても大きな損失を産んだだろうと思う。

もう少し背景的なところまで踏み込めば、ロンドンを除く過去数回の大会において、オリンピックのメイン競技場の建設が間に合わないなどの問題が無数に出ている。おそらくロス五輪以降に普及したオリンピックの商業主義化は、参加国の増加やビジネス規模の拡大の結果、再び都市開催のメリットを見出すことが困難になるほどまで肥大化したのだと思う。以後のマネジメントは、大会規模がそのクラスのものであることを前提に考えていかないといけないのだろう。

ともあれ、話を「パクリかオリジナルか」「ネット対デザイナー」といったアングルで理解しようとする限り、誰がどんなデザインを出そうと、騒動は絶対に終息しない。僕の周りにも、それぞれの立場に近い人がたくさんいる(場合によっては行政に近い当事者ですらある)ので、言いっぱなしもよくないという気持ちはあるのだけど、もう都民ではない僕としては、このくらいしか言えることもないのだった。

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