「パワー・トゥ・ザ・ピープル」の世界

ICTを巡る議論の中で、いわば「お約束」というか、定番のストーリーとなっているものがある。新たなテクノロジーの普及によって、グーテンベルクの活版印刷が市民革命を生み出したのと同じような革命が起きる、というものだ。とはいえ42行聖書の印刷が1455年、名誉革命が1688年とかなので、両者の間にどのくらい直接的な因果関係があるのかは謎だし、間に200年も開いてるのだから、いま起きている技術革新が革命につながるまで何年かかることやら、とか、突っ込みどころは満載なのだけど。

ところがこの数年、「世界のパワーシフトが起きる」という話がやたらと目につく。エリック・ブリニョルフソン『機械との競争』(邦訳2013)、ニコ・メレ『ビッグの終焉』(邦訳2014)、ジェレミー・リフキン『限界費用ゼロ社会』(邦訳2015)、マーティン・フォード『ロボットの脅威』(邦訳2015)などなど、同じような本が次から次へと登場している。日本でも『〜の衝撃』なんてタイトルの技術動向紹介本はありふれているけれど、それらがビジネスモデルの変化という相対的にミクロな話に焦点を当てるのに対して、翻訳本においては「大きな権力から小さな権力へ」といったマクロな社会変動が基本線になっているあたりも特徴か。

今年になってその辺の翻訳が増えた理由は、「AI」「IoT」「ロボット」などの新しい技術動向が紹介される一方で、そうした技術を社会の中に埋め込んでいくために必要な議論が足りていないというところにあるのだと思う。「クラウド」くらいだとそうでもなかったのかもしれないけれど、「自動運転車が公道を走る際に起きる事故の責任は誰が負うか」なんて話になると、サンデル先生の紹介したトロッコ問題じゃないけれど、倫理学や社会思想の領域に入ってくることもあって、どうしても話が大きくなるわけだ。

さらに言えば、これらの技術動向の進化と僕たちの議論の速度が見合っていないことも、書籍という形で議論が流通する理由なのかもしれない。専門家の議論というのは、市井の情報との落差があるほうが需要につながるのだし。「シンギュラリティ」「無人爆撃機」「雇用の喪失」といったセンセーショナルな可能性を「すぐそこにある未来」として提示し、「今から考えておかなければ」ということなのだと思う。

ところが今年は、こうしたパワーシフト論に新たなメンバーが加わった。こちらは技術の話もするけれど、どちらかというと新興国の台頭を背景にした世界の権力地図の変化に焦点を当てている。タイラー・コーエン『大格差』(邦訳2014)、キショール・マブバニ『大収斂』(邦訳2015)、マシュー・バロウズ『シフト』(邦訳2015)、モイセス・ナイム『権力の終焉』(邦訳2015)などなど、こちらも翻訳本がたくさん出た。それぞれ論点も論調も違うけれど、おおまかに共通しているのは、(1)新興国の台頭と先進国の相対的地位低下、(2)先進国における格差拡大と新興国での中流層の増加、(3)先進国内での教育・雇用システムの変化の必要性、といったところだろうか。

ICT、グローバリゼーションともに重要な変化であり、また今年あたりの動向として、可能性の話というよりは、それが具体的にどんな指標として現れているのかといった議論が出てきていることも含め、今後も注目のトピックになることは確かだ。ただ僕としては、こうした話を考えている中で出てくる処方箋に、ある種のパターンを見いだせるような気がしている。

一方の立場は「エンパワー」と呼ぶことができる。これは、従来の社会では力を持つことや評価されることが難しかった人びとが、パワーシフトによって脚光を浴びる可能性に開かれることに注目するものだ。グローバルな産業構造の変化によって、新興国は既に外注先ではなく市場として考えられるようになったのだけれど、そのことによって彼らの世界に対する影響力も増大する。もはや彼らは先進国大企業の言いなりではなく、彼らの意向を汲まなければ新市場獲得競争に乗り遅れる、そういう側面も出てきているわけだ。

またエンパワーの思想は、特にICTと相性がいい。MOOCなどのオンライン教育の手段が普及すれば、学校に行くことが困難な層や一度ドロップアウトした層にだってチャンスが開かれるはずだ、という議論がまた盛り返してきているし、エンブレム問題や国立競技場問題がそうであったように、権力者が密室で決めたことも、ネットの世論によってひっくり返すことができるくらいには、僕らの世界の「パワー・トゥ・ザ・ピープル」化は進んでいるのだと。

もちろん、それに対して反対する声も根強い。デザイン周辺で言えば、「ネット世論に迎合する動きが、デザインのプロフェッショナリティを損なう」というプロ側からの批判がずっとあるし、僕のところに来る取材依頼なんかでも、ネット世論を移ろいやすい、瞬間湯沸かし器的なものと見なした上で、その弊害についてコメントして欲しいという意図が見え隠れする場合が多い。

確かにそういう風に読める本も書いてきたし、それは仕方のないことだろう。ただ僕のスタンスはそこまでクリアではない。まず、エンパワーとプロフェッショナリティが矛盾するという点について。何事にもプロフェッショナリティというものがあり、それがある種の「修練」なり「鍛錬」なり、精神的なストイックさを伴うものだという世界観には共感する。ITベンチャーの経営者なんかが言う「は? そんなものウケた奴が正義でしょ」「人工知能でヒットパターンを解析すれば話が済む時代に修練とか時間の無駄でしょ」みたいな割り切りまではできない。ただ、(1)純粋に作品としての質を問うのではなく、そこに政治的プロセスが介在する場合には、プロフェッショナリティだけが評価基準になる必要はない、(2)そもそも大衆芸術などの世界においてプロフェッショナリティとポピュラリティのせめぎあいは古典的な問題なので、今更ポピュラリティに軸足が移ったとか騒ぐのは的外れ、という点において、プロフェッショナリティ至上主義にも疑問を感じる。

むしろ注目しないといけないのは、エンパワーのための手段が、ポピュラリティすら必要としなくなっているということだろう。Kickstarterのような手段を使えば、市場全体としてはありえないようなニッチ商品でも具体化できるだけの資金を集められるかもしれない。こうした流れを昨年は「里山ウェブ」、今年は「ブロック化」なんて呼んできたのだけれど、要するにエンパワーの世界においてはマクロ最適な解に満たないが一定規模でミクロ最適に到達する解にも意義が生まれるということなのだ。おそらくエンパワーのシステムが十分に浸透すれば、これから自分で何かして世に出ようという子たちにとって「マクロ最適な答え」と「ミクロ最適な答え」のどちらを選ぶかは本人の好みの問題でしかなくなるし、例えば一人のアーティストがアルバムや曲単位でどちらを選択するかも任意ということになるかもしれない。

ただ、個々の産業や社会活動のアクターが何を選ぶかということと、社会全体としてそれでいいのか、という話は別だ。先に挙げたパワーシフト論の中でも、例えばコーエンなんかがそうだけど、「マクロ最適な答え」に対する期待が弱いという傾向はある。具体的には、マクロ最適を追求する政府の政策なんかでは、パワーシフトの時代には取りこぼしが多くなるわけで、政府に期待するくらいならミクロ最適をたくさん生み出すことのできるプラットフォームに期待し、NPOなんかによるエンパワーでミクロな補完を進めるべきだということになるだろう。

「パワー・トゥ・ザ・ピープル」化する世界における他方のリアクションというのは、こうしたエンパワーの価値を認めつつも、それが社会的な分断や断片化を引き起こすことを問題視するものだ。特に、エンパワーの不公平性をどうするかというところが大きな疑問点になるだろう。エンパワーの世界では、これまで光の当たらなかった人にもチャンスが巡ってくるかもしれない。だがそれはあくまで可能性の話であるし、そのチャンスを手にするためには運や実力、あるいはそれを上手にプレゼンする能力が必要になる。言い換えれば、エンパワーの世界観は、存在しているだけで認められるべき生存権や生活保障といった基本的人権を尊重する考え方と相性が悪い(ちなみに前のエントリで挙げたプリンセス的な志向との相性はとてもよい)。

ここで重視されているのは「共生」のあり方だと言えるだろう。共生といっても、マイノリティをマジョリティに統合するような「強制」や「矯正」とは違う。エンパワーの世界が、修練を伴うプロフェッショナリティとの緊張関係を伴うように、現代的な共生は多様性との緊張関係をもつ。だが、エンパワーのための手段が広がるほど、逆説的にそこから取りこぼされる人びとに対してどのように向き合うかを考える必要が出てくることは間違いないので、エンパワーが進めばそれでいい、ということにはならないだろう。

この「エンパワーか共生か」といった評価軸は、今後、いろんな出来事の背後にある世界観を分析する上で大事なものになるような気がしている。それは純粋に社会思想上の問題でもあるけれど、何かの実践を考える上でも、それが依拠する足場となる――無自覚にある価値観を選びとるという意味で――のではないだろうか。

テクノロジーが雇用の75%を奪う
朝日新聞出版 (2015-02-24)
売り上げランキング: 25,328
角川インターネット講座 (10) 第三の産業革命経済と労働の変化
KADOKAWA/角川学芸出版
売り上げランキング: 53,705

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする