反抗なきロックの時代

若い時分、僕の周囲にはロックミュージシャンしかいなかった。アマチュアからベテランまでたくさんの人たちと関わって、たとえば「ミュージシャン」と「芸能人」の間にある微妙な差だとか、フリーランスの演奏家として生きていく彼らの職業意識だとか、そういうものを学ばせてもらっていた。概して彼らは低姿勢だったけど時によっては「ロック」な立ち居振る舞いで、彼らの語る70年代や80年代の武勇伝を聞きながら、さすがにビール瓶で頭を殴られて流血こそしなかったものの、これでも時代はマシになった方なのだろうな、と感じていたものだ。

いいとか悪いとかの話ではなく、それはある環境が生み出した生き方だったのだと思う。そして、産業化され、大きな市場になっていた90年代の音楽シーンにおいては、衝動的な自己表現が溢れた結果としてのロックの居場所は、かつてよりは小さくなっていた。「マス」という存在を意識できる演奏家たちは、その変化に戸惑うものもありつつ、上手にそれに合わせる形で僕のような若いやつを、潰さない程度に「かわいがり」してたのだと思う。

当然のことながら、そういうものを一括りにして「ロック」とか言える時代はとうの昔に終わっている。行くところに行けばそりゃあるんだろうけど、基本的にはパワハラであり迷惑防止条例等違反行為であり、マネジメントの失敗だということになる。最近もとある大先輩から、若手(ってもいい年だけど)のミュージシャンの話を聞かされ、ロックである前に社会人ですよね、なんて思わされたのだった。

同じ話は「体育会系」の世界においても顕著だ。こちらも行くところに行けば前時代的な指導が横行しているけれど、ロックなんかよりもずっと早く科学的なマネジメントを採用し、子供の世界においてすら指導の合理化が進んでいる。というより音楽表現とは異なり、記録や勝敗という形で結果が出るだけに、合理化の動機付けが強かったのだろう。それは副産物として、恵まれない家庭の子が必死で練習したら成功するというサクセス・ストーリーの余地を以前より狭め、ある段階以上においてはきちんとお金の回る練習・競技環境を整えないと成長が見込めなくなるという課題も産んだのだけど、そこはまた別の話だ。

理不尽さが減って合理化が進むのはいいことだし、そもそも前時代の経験者ではない僕に過去への憧れはない。以前にも書いたとおり学術の世界ですらこの種の理不尽さはつきまとうけれど、指導される側の前提が変われば、上の世代がどれだけ愚痴を言おうとそれに合わせていく流れになるだろう。僕の関心はそこではなく、そんなときに「ロック」がどう表象されるのかということにある。

社会学的には、ロックの誕生は戦後のユースカルチャーの勃興と連動したデモグラフィカルな現象であり、またアメリカから世界に広がった核家族型消費社会モデルへのアンビバレントな感情のはけ口でもあった。「Don’t trust over 30」だった60年代には、より根源的な社会への反抗が試みられたりもしたけれど、消費社会化が進み、ロック自体も産業化され市場が拡大すると、「権威への反抗」と「消費者への従属」という別のアンビバレンスを抱えることになった。「ロックは死んだ」という物言いは、そういう意味で「本当のロック」をどこかに想定するロマンチックなものだといえる。

でも、そういう色眼鏡を外したときに「ロック」ってどう見えるんだろう。そういうことを考えたのは、年末にも取り上げた「デレステ」で、ひたすら多田李衣菜が「ロックですよね!」って繰り返すからだ。ですよね、というからには、たぶん彼女の中には「ロック」なるものの共同幻想が存在している。が、それはどう考えても僕の知ってる「ですよね!」とは一致しない。困った。

20160127

本当なら雑誌のインタビューなどを定量的に調べた方がいいのだろうけど、もともとが間主観的な概念だけに、かつてと変化したのか、その内実はどのようなものなのかを調べる手段すら心許ない。ファッションの面ではダメージ加工、レザー、チェック、スカルあたりがテンプレのように用いられるけど、最近の日本のロックバンドと言えばマッシュルームカットにスキニーパンツで、とても中性的だ。音楽と言うよりは生き方の話なのだろうけど、そういえば最近、ケンカだ酒だといった武勇伝もすっかり聞かなくなった。内向的でシニカルな知性を感じさせる歌詞、なんてのも昔からあるし、グランジの頃には注目も集めたけど、音楽表現としてはより技巧的で調和の取れたものが好まれているようにも思う。

この段階で仮説めいたことを言うなら、ロックという言葉の再帰的な用法が定着しているのかもしれない。消費社会が再帰的な引用で成り立つことを指摘したのはジェイムソンの『カルチュラル・ターン』だったと思うけれど、いま、引用のためのデータベースとしてのロックは、「権威への反抗」だとか「反商業主義」のようなものとは異なる体系に変化したように思えるのだ。

というのも、先に述べたとおり、ある種の反権威主義は現代において単に迷惑だからだ。「夜の校舎の窓ガラス壊すなよ問題」と言い換えられるかもしれない。大人の社会に絡め取られることの抗いがたさを抱えながら、自己表現によってそこから脱出しようと試みなければならないほど、現代は不自由でなくなったのだろう。

どちらかというと感じるのは、自己表現の手段は用意されているものの、そこに広がる小さな同調圧力だ。スタジオ・フェイスの宮田代表のインタビュー記事を読むと

例えば、ダンスのイベントでもあることなんですが、自分が踊ったら帰ってしまうダンサーが多いんです。イベントは最初に駆け出しのダンサーからスタートして最後にゲストのダンサーが踊るんですが、自分たちが踊り終えると帰ってしまうことがあって。客席が空いたままゲストが踊るようなことになってしまうんです。これって、ダンスが好きじゃないんですよね。踊ってる自分が好きなんです。踊ってることが、ただ気持ちいい。それを深めていこうっていう気持ちがない。

とある。推測に過ぎないけれど、自己表現としてのダンスを「深める」ものと考えるなら、ここで若い子たちが求めているのは「つながる」ダンスだ。だから自分たちの小さなクルーで「つながり」を感じるために、終わったらさっさと打ち上げに帰ってしまう。不真面目ということではなく、そもそもの目的がズレている。でも逆にCreepy Nutsのインタビューなんかを読むと、彼らがいかに自己表現の深みにハマっていったのかがよく分かる。新譜におけるR-指定のリリックにも、ネット時代の同調圧力に対する違和感と、それをディスりきれない忸怩たる想いが投影されている。ヒップホップの世界の方がロック的な自己表現との相性がよくなっているのだとしたら、すごく面白い現象だと思う。

自己表現としての反抗は、社会から見れば単なる迷惑。一方で自己表現という形で沁みだしているのは、「つながり」が当たり前の世界での、できる限り人に迷惑をかけない自己完結。深めることを求めさえしなければ、つながりの中で自己表現を通じた承認を得られるわけだから、やっぱりこの社会は反抗を必要としないくらいには開放的になったのかもしれない、少なくとも、マジョリティな人たちにとっては。

かつて、ロック的な反抗、反権威主義はそのまま消費社会におけるイノベーションの原動力だった。こういうと聞こえはいいけど、そうしたイノベーターたちの中には、社会的に迷惑な人たちがたくさんいた。というより、社会的に迷惑な人たちの存在を許容していたら、その中からごくまれに途方もないイノベーターが出てきたのだ。ジョブズだって、プレゼンターとしてはともかくマネージャーとしては決して評判が良くなかったとも聞く。

むしろ現代では、アーリー・アダプター向けのとがった製品開発を主導する、迷惑行為込みのイノベーターではなく、相手の多様な背景に配慮し、セグメントの異なった市場に柔軟に対応できるコミュニケーション能力の高いマネージャーが求められるのだろう。クックがそういう人物であるかどうかは分からないけど、聞き及ぶ限りにおいてはそちらだろう。評価経済の時代なのだから、無頼で迷惑だけれどもイノベーティブなロック、というわけにはいかないのだ。

カルチュラル・ターン
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