「ポケモンGO」を社会学的に考えるためのヒント

以前から話題になっていたポケモンのキャラクターを用いた位置情報連動ゲーム(位置ゲー)である「ポケモンGO」が欧米でリリースされて1週間ほどが過ぎた。巷ではポケモンゲットに熱中する外国人や、関連株の値上がり、いわゆる「ポケモノミクス」についての話題でもちきりだ。日本でも同作がリリースされれば海外のような、あるいはそれ以上の熱狂が起きるはずだと当て込んだ人々の落ち着かない動きも、こうした話題への注目に拍車をかけているようだ。

むろん、ポケモン関連市場は国内において非常に大きいから、リリースされればなんらかの動きはあるだろう。一方でまだ同作をプレイしていない僕には、それがコロプラからイングレスまで連なる「位置ゲー」の特徴や課題を共有するものであると見えるし、やや距離を置いて見ていたい気持ちになるところがある。ひとまずこのエントリでは、「ポケモンGO」に限らず、こうした技術が社会に拡がることはどういう意味を持ち、何が起きると考えられるのかについて述べてみたい。

先んじて言っておくと、こうしたことを僕が書くのは、たとえば卒論で「ポケモンGO現象を扱ってみたい」という学生なんかに対してヒントになるようにという意図からだ。ゆえに、おそらく多くの人が関心を持つであろう「コンテンツとしてのポケモンGOの魅力」や「ビジネスとしての展望」「熱狂するユーザー心理の背景」といったことの具体的内容には踏み込まない。さらに言えば同作の基礎となっているイングレスについてもほとんど扱わない。この時点で意味のない話だと思った人は「戻る」か「タブを閉じる」をクリックして欲しい。

実は社会学の卒論では、「現在起きている最新の事例を、それとは異なる現象だと見なされているものと同種のメカニズムで起きているものとして分析する」という視点がとても重要だ。学生たちに卒論を指導していてよく聞くのは、「『ポケモンGO』について扱った先行研究の論文がないので研究が進められない」という悩みだ。しかし、これは研究のアプローチを間違う典型的なパターンだと言える。後に述べるように、「ポケモンGO」が引き起こしていることのいくつかは、既に別のゲームや、あるいはまったく異なる場面で同じように観察されるのであって、そうしたものを「先行研究」としてピックアップできるような勉強とセンスが問われているのである。

以下、少し長めに、社会学的な「空間」と「情報」の関係について述べていく。読んでいられない人のために結論だけを手短に述べておこう。「ポケモンGO」の登場によって位置情報と連動したゲームや広告がこれまで以上に普及すると想定した場合、私たちはこの社会における「情報空間の争奪戦」に直面することになる。物理空間のような制約を持たない情報空間においては、同じ物理空間に複数の情報を付与することができるからだ。さらに、そのような争奪戦の中でもっとも重要になるのは、ひとつの空間に別の意味を付与することを許さないような場面において、新たな情報の付与をどのように抑止するかだ。そこで私たちは、人々の自由な営みが観光地のような情報空間を創るというダイナミズムと、よそ者に好き勝手に場を荒らされたくないので、彼らの振る舞いを制御したいという願望の間のジレンマに直面することになる。このジレンマは、個々人が経験するゲーム内外での楽しみやトラブルに比べれば抽象的で規模が大きいので、実感として受け止められるまでに長い時間がかかるかもしれないが、既に一部で起き始めていることであって、また無視することの難しい問題なのである。

1.社会学は、「人の営みが空間をつくる」と考える

社会学という学問が、特に社会科学の一部として数えられるときに不評なのは、分析の場面や対象と、分析の内容がリニアに対応しておらず、「これはこういうもの」と断定できなかったり、酷い場合には分析者の職人芸的な属性に依存したりするからだろう。こうした特性は社会科学というよりは文化人類学などの人文学に特有のものであり、その面だけ見れば社会学は、社会科学の中でも亜流に属することになる。もちろん、数理や統計を扱う分野では、より社会科学に近いところもあるのだが。

なぜ対象と分析がリニアに対応しないのか。ひとつの要因として、社会学が「行為」を分析の対象にするから、ということがある。「行為(Action)」というのは、社会学の中では「行動(Behavior)」とは区別され、一連の行動が意味を伴っているようなもののことを指している。「口にものを入れる」という行動は、入れるものが食物であれば「食事」という行為になるが、幼児が自分の指を口に入れる場合には「指しゃぶり」という行為になる。

その行動がどういう意味であるかを決定するのは、物理現象として観察可能な行動ではなく、それらを含めた文脈(コンテクスト)の組み合わせだ。たとえば、「自分の持っているお金を穴の空いた箱に入れる」という行動を例に考えてみよう。それが「神社」と呼ばれる場所で、「賽銭」と書かれた箱にお金を入れるのであれば、それは「参拝」と呼ばれる行為になる。一方、駅前でボランティアスタッフが持った箱にお金を入れるのであれば「募金」と呼ぶべきだろう。

賽銭と募金の違いは、誰が見ても明らかかもしれない。では、ある学生が、強面の先輩に「友だちが彼女を妊娠させちゃったんだ、募金よろしく」と言われて、彼の差し出した箱にお金を入れるのは、「募金」と呼ぶべきか「恐喝」と呼ぶべきか? それを判断するためには、さらなる文脈の情報が必要になるだろうし、どのような情報が揃えばその意味を確定できるのかも自明ではない。もしかすると、先輩の側は体よくカツアゲしたつもりかもしれないが、実はその学生が裏で彼女に手を出していたとするなら、それはもう募金とも恐喝とも言い切れない、非常に複雑な意味を持った行為になる。

「ポケモンGO」のような位置ゲーが社会にもたらす影響を考える際にも、社会学では、経済(商業)的なものや政治的なもの、個人の心理などと並んで、「それが社会的にどのような行為の文脈を形成するか」ということを意識する。ここで特に重要なのは、「空間」に関する文脈だ。

物理空間は、様々な物質の配置によって形成される。四隅を壁で仕切られた空間は「部屋」になるし、そこに机や椅子を特定のパターンで配置することで「教室」や「会議室」をつくることできる。だが物理的な配置だけで、そこで行われる行為の意味をコントロールできるわけではない。むしろその空間において特定の文脈が発生するように促すのは、そこを利用する人々の方であるはずだ。

大学ではありがちな風景だが、学食やラウンジの一角を、特定のサークルが「専用席」として占拠することがある。教室の中でも、お昼にリア充グループが集まってわいわいするゾーンというものができることがある。面白いことに、その「専用席」「ゾーン」は、ルールによって定められたわけでもないのに、その場を利用している他の人々にとって一定の拘束力をもつ。だから隣の席の学生は、リア充グループに「ちょっとどいてくれない?」と言われる前に一人で席を立って、別の場所で弁当を食べることになるわけだ。

私たちの社会には、特にそう決められているわけでもないのに、「ここはこういう場所」という意味を帯びている空間というものが発生することがある。「駅前の待ち合わせ場所」「デートスポット」「カップルが等間隔で並ぶ河原」「ストリートミュージシャンが演奏する場所」など、いずれも制度的に定められたものではなく、人々の営み(社会的行為)が、そのような意味を生みだした空間である。このような「意味を伴った空間」のことを、僕は「情報空間」と呼んでいる。

2.通信メディアは、コミュニケーションによる空間の意味の上書きを引き起こす

人の行為が空間に意味を発生させるなら、社会学的に重要なのは、その空間の物理的な配置や制度的な取り決めだけでなく、人がそこでどのような行為をするかだ。たとえそれが制度に裏打ちされたものであっても、人が実際にそのように行為しなければ、空間の意味は生まれない。もちろん、人の行為が生み出す意味に対して、制度がそれを後押ししたり、逆に禁止したりすることによって空間の意味が定着することもあるので、人の行為だけが重要というわけでもない。

人の営みが空間の意味を生み出すというときに、とりわけ位置ゲーとの関係で注目しなければならないのは、情報通信技術がその場の意味をつくりだす可能性だろう。特にイングレスのプレイヤーであれば、普段通っている場所、あるいは初めて訪れた場所がどのような意味を持つかというときに、最優先でスマホを取り出し「青か緑か」ということに関心を持つはずだ。そのポータルがエンライテンドのものかレジスタンスのものかという情報は、その空間固有の意味とはまったく無関係であるだけでなく、周辺のスポットの占拠率によっては、そこが「激戦区」「最重要地点」と見なされることもある。つまりそこでは、ゲーム上でのユーザーの行為が、そのポータルが存在する場所の意味を決定する要因になっているのだ。

似たような事例としては、「アニメ聖地」が挙げられる。これまで話題になったアニメ聖地の多くが、アニメのファンによる「聖地」の特定→実際に現地を訪れての撮影→写真をウェブにアップすることによる拡散といったステップを経て「聖地化」することが、これまでの研究で知られている。これも、その空間固有の意味とは独立に、ウェブ上で人々がコミュニケーションすることで新たな意味を生みだした例だと言えるだろう。

そしてこうしたケースでときに問題となるのが、その場所にそれまで存在していた意味が、コミュニケーションによって生み出された意味によって「上書き」されるということだ。すなわち、その場にもともと存在していた意味と、新しい意味が同じ場所に混在し、後者が前者の意味を打ち消してしまうのだ。しかもその場の意味を上書きするコミュニケーションは往々にしてウェブなどで行われるため、そのやりとりを見ていない人にとっては、そこで何が起きているのかが理解できない。結果的に両者の空間への見方は対立してしまうこともある。

イングレスでもアニメ聖地でも起きていたこの現象は、「ポケモンGO」においても同様に観察される。ロイターによると、本作に絡んで米国では、ユーザーをおびき出しての強盗や負傷の例が出ているという(記事1記事2)。ゲームの外では「危ない場所」であることが、意味の上書きによって認識できなかったわけだ。

注意しなければいけないのは、こうした「上書き」現象は、なにもゲームだから起きているわけではないということだ。2013年に出版した本で僕は、モバイル情報通信機器が現実空間に持ち込まれるとき、人々はその場の意味の空間だけでなく、通信によって入り込んでくる別の場所のコミュニケーションを引き受けなければいけなくなり、現実空間の特権性が失われるということを論じている。すなわち、僕たちの生きる空間には、スマホを通じて入ってくる情報が通る無数の「穴」が開いているのであり、誰もがそうした「多孔化」した現実を生きなければならない事態に直面しているのである。

3.今後重要になるのは「情報空間の争奪戦」と「意味の共有」

現実の多孔化によって生じるのは、「この現実」つまり実際に触れることのできる現実が、必ずしも特権性を持たなくなるということだ。僕は古い世代なので、目上の人がいる前で電話に出るという行為にはどうしても違和感があるけれど、実際には先輩と話しながら友だちのLINEに返信する学生は当たり前のようにいるし、その隙に先輩の方もFacebookを見ていたりする。女子会を観察していると、必ず数十分に一回くらいは「全員無言のスマホタイム」が訪れる。「目の前の人が一番大事」というのは、少なくとも強い常識ではなくなりつつあると思う。

パーソナルなコミュニケーションの場であれば、その種の葛藤は当事者で解決してください、というほかない。「ポケモンGO」が向かおうとしている先には、むしろ「公共空間の意味が上書きされる」という事態があるように見える。以下、それに関連して2点の問題を挙げてみよう。

ひとつ目は、本作のビジネスの基盤でもある商業施設との連携について。ダイヤモンド・オンラインに転載されたロイターの記事を読むと、「ニューヨーク州ロングアイランドにあるピザ屋は、ポケモンのキャラクターを店に引きつける機能を起動させることで、売り上げが週末にかけて75%も急増。ニューヨーク・ポスト紙によると、同店のマネジャーはポケモンのキャラクター10個以上を引きつけるのに10ドル支払った」とある(記事)。国内においてもファストフードチェーンが本作のスポンサーになっているという噂が流れており、この数年注目を集めてきたO2Oのようなプラットフォームとして、本作が機能することが示唆されている。

レアアイテム、レアキャラを求めて人々が店舗に集まるという現象は、2009年夏に発売された『ドラゴンクエストIX』の「宝の地図」を交換していたスポットである「ルイーダの酒場」を彷彿とさせる。あのときはほぼ自然発生的に生じた情報空間だったわけだが、近年ではそれを集客手段として意図的に用いる流れがあった。そこに登場した大ヒットコンテンツが「ポケモンGO」だったわけだが、公共空間の面から考えると、ここには興味深い課題がある。

いわゆる看板のような屋外型広告は、リソースが限られているために公共的な価値を持つ現実の空間において、都市景観の観点から規制されることになっている(参考)。東アジアの都市における看板で埋め尽くされた風景をいいと思うか悪いと思うかは人の価値観だが、少なくとも日本では、屋外型広告というものは、誰でも自由に出せるものではない。

しかしながら情報空間を生み出す情報は、その定義上ほぼ無限のリソースを持つ。言い換えれば、ファストフード店の前を通るとクーポンが発行されるという位置情報連動型広告を出したからといって、隣の店が広告を出せなくなるわけではない。場合によっては、「水曜日はレディースデー」のように、特定の曜日や時間帯に、特定の属性の顧客にアピールすることで、同じ場所に複数の広告が存在するかのように見せることもできる。

もし仮に、事業者が広告料を支払うことで、自分の店舗(の情報空間)に「ポケモンGO」のレアアイテムを設置できるようになるとすると、物理的な見た目上はまったく変化のない公共空間が、ゲームのフィルターを通して見ると集客用の広告で埋め尽くされている、ということが起こりうる。こうした無制限な広告出稿に規制をかけようとすれば、景観ではなく別のロジックが必要になるかもしれない。

もちろん、それとは逆のケースも起こりうる。つまり、店舗側としてはその場所を「落ち着いたカフェ」として過ごして欲しいのに、たまたまレアポケモンが登場するからという理由でスマホをかざす客が殺到し、他の客が寄りつかなくなるという機会損失の発生だ。こうしたケースは、病院、住宅街などでも既に起きているという(記事)。ラブホテル街にポケモンが現れたら、相当な機会損失が発生しそうだ。

問題はこうした、いわば「情報空間の争奪戦」だけではない。そもそも「スマホを通じた多様な意味を持ち込むことが許されない空間」というものもある。戦没者慰霊施設、歴史文化遺産、軍事上の戦略拠点、行事や式典の会場などだ。既にこうした例はいくつも報告されている(記事1記事2)が、たとえば霊柩車を送り出す葬儀屋の前にポケモンを探すユーザーが大挙して押し寄せるといった事態を考えると、問題は意外に難しい。起きているのは、特定の場所だから不謹慎だということではなく、その場にいる人どうしが、お互いまったく異なる意味をもつ空間を生きていることによって生じるトラブルだからだ。

これらの問題について、はっきりとした答えを出すことはできない。というよりもこれは社会の中で「どこまで、どのような行為が許容されるか」をめぐる合意の問題なのであり、効率性や合理性だけで結論づけることができないものだからだ。

かつて「電車の中で通話するのはマナー違反か」という議論があった。気付けば日本では多くの人が、「通話を控える」のをマナーだと意識するようになった。一方で、たとえば「レストランで料理の写真を撮る」「葬式の場でご遺体の写真を撮る」「卒業式で我が子のビデオ撮影に夢中になって話を聞かない」「授業中、静かにしているもののスマホを取り出してなにやら操作している」などなど、「情報」と「空間」をめぐって、まだまだ合意に至っていないケースはたくさんある。おそらくは「公共空間でゲームに夢中になっていいかどうか」も、その列の最後尾に並ぶことになるだろう。それはおそらく、ゲームの問題ではなく、ゲームを受け入れ、利用する僕たちの方の問題だ。

補足しておくと、こうした新たな課題に対する僕の立場はニュートラルだ。先程も書いたように僕は古いタイプの人間だから、公共空間や、同じ場をともにしている人が、目の前の場や関係ではなく、多孔化した現実に入り込んでくる情報の方に夢中になっている状況には違和感がある。けれど、そこで「失礼なやつだな!」と怒ったり、そうした振る舞いを強制力をもった制度で規制しなければならないと思えないほどには、同じように多孔化した現実の中を生きている。今後の議論のあり方としてはドローンや自動運転の場合と同じく、広い社会的認知のもと、「ありうべき状態」がオープンに論じられるべきだろう。多くの人は、僕と同じようなジレンマの中で生きていくのだろうから。

ウェブ社会のゆくえ―<多孔化>した現実のなかで (NHKブックス No.1207)” style=”border: none;” /></a></div>
<div class=
鈴木 謙介
NHK出版
売り上げランキング: 103,914

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする