現実をポケモンが徘徊する〜電脳コイル化するポケモンGO

「ポケモンGO」ファーストインプレッション

まだ2日くらいしかたっていないのだけど、各所で歩きスマホする人を見かけるようになったのは、「ポケモンGO」のリリースの影響なのだろう。他方で、既に述べていたように神社などではこのゲームのプレイを禁止するところも出てきて(記事)、それ自体は神社側も予想できていたことだとはいえ、非常に興味深い動きになっているなと思う。

勤め先の大学でも、試験期間中とはいえリリース直後は祭り状態だった。話を聞いてみると、学内を一周するとちょうどポケストップが回復するらしく、歩きスマホする学生が多数。数人のグループで「えっこれどうやるの」などと話しながら歩いていたり、サークルを作って座り込んで画面を見せ合ったり。この世代って約10年前のモンハンブーム(ポータブルの2nd〜2nd G)くらいに小学校高学年〜中学生くらいのはずなのだけど、塾の帰りとかに輪になってモンスター狩ってたはずで、ポケモンだけでなくその辺の記憶も含めて馴染みやすいというか胸熱なのだろうな。

以下、学生たちと実際に行動をともにして感じたことなどの雑感。一般性はないかもしれないけれど、ひとつのメモとして。

インストールしてプレイしてみた、というレベルでいえばかなりの割合にのぼる。ただ、画面を見ているだけではどうやってプレイするものなのかチュートリアルされないので、アクティブにプレイするかどうかを左右しているのは「ウェブで情報を調べているかどうか」と「詳しい人が周囲にいるかどうか」。この点で、女性よりは男性の方にアクティブなプレイヤーが多い。つまり女子学生の方が「落としてみたもののどうすればいいのかわからない」という状態で戸惑っている度合いが高い一方、男子学生はグループで集まって話しながらプレイしている場面をよく見かける。

グループでのプレイという点で言うと、特に男子学生たちにとってはこれがコミュニケーションツールになっているということ。いや、というかそもそも中高生の頃から彼らのコミュニケーションツールはゲームやアニメなどのコンテンツだったのかもしれない。同じゲームをプレイしながら「お前、どこまで育てた?」という会話をするのは、彼らにとっては自然な流れなのだろうし、そこには思春期的な卓越志向(あいつより上に立ちたい)と現代的な連帯志向(ぼっちにはなりたくない)がないまぜになっているように見える。

しかし、そうした話とは別に会話の中身が面白い。男子学生についていってみると、行動がポケストップ基準なので寄り道ばかりになる。10mほど脇にそれると野生のポケモンが飛び出してくるので、それを狩っているうちに時間が過ぎる。ゲームしながら歩くってこういうことか、と思うし、日常空間を冒険の舞台に変えるという点で、もしかするとこれこそが拡張現実(AR)のあるべき姿なのかもしれないと感じた。社会学的にはARって拡張現実感のことだから、画面を通して現実にキャラクターを重ねる必要などないのだ。

そのことを強く感じたのが、学生と話していたときだ。僕の画面にポケモンが現れたとき、そのことを同行者に告げたのだけど、彼の画面にはまだポケモンは表示されていない。「どこですか?」と訊かれた僕は、現実の空間で、ポケモンが登場している建物のあたりを指差して「あのへん!」と答えたのだった。ポケモンは位置情報として、画面の中に表示されたデータに過ぎないのだけれど、現実空間の中にいる僕たちにとっては、ポケモンはそこに「いる」。

あるいは、数m先を歩いていた学生グループが突然立ち止まり、後続のグループもそこで止まって画面を見始める。車通りも多い場所で非常に危ないのだけれど、他方で僕らには「そこにポケモンがいる」ことが直感的に分かる。なんなら見える。すなわち、既に現実感は拡張されてしまっている。

これは「電脳コイル」の現実化だ

都会ではどのようにプレイされているのかは分からない。もしかすると狩り場のような場所が見知らぬ人同士の出会いの場所になっているのかもしれない。ただこの地方都市の学生たちと一緒に行動をしていて思うのは、「ポケモンGO」は小学生がゲームを片手に近所を探検して回るような遊びを誘発しており、おそらくはその意味で任天堂イズムを継承しているということだ。いい大人が他人の敷地に進入するのはどう考えても浅はかだと思うけれど、昭和生まれの僕らにとっての「冒険」は、そういう「近所にある謎の場所」を探検することだった。

そこに拡張された現実感が加わると、日常の生活空間が一気にゲームのフィールドになる。友達同士で話しながら、あそこにポケモンがいる、ここにポケストップがある、と拡張現実の方を基準に行動する。

それって『電脳コイル』じゃん、と思った。2007年に放送されたこの作品は、その後のARブームとも連動しつつ、「拡張現実技術が見せる未来像」という受け取られ方をしていたのだけど、僕にはそれが不満だった。むしろこの作品は、技術が見せる拡張された現実なるものが、現世と異界のはざまで不安定に揺れ動く子どもの目から見えるオカルトの世界、民俗的な世界と同じなのだというビジョンを示した点で画期的だったのだ。

未見の人のために簡単に説明すると、「電脳メガネ」という拡張現実技術が普及した社会が舞台。小学生たちは電脳メガネを通してしか見ることのできない電脳ペットや電子空間のバグ、空間管理室のサーチマトン(ボット)たちとのやりとりの中で、いくつもの「謎」に迫っていく。その謎の展開も非常に面白く、また登場人物たちの成長には思わず涙してしまうのだけれど、今回の話しとの関係で興味深いのは、たとえば「ミチコさん」に遭うと「アッチ」(異界=あの世)に連れて行かれるとされる都市伝説など、電脳空間と民俗の世界が重ねあわせられていることだ。また、郵政局の管轄であるサーチマトン「サッチー」から逃れられるのは、文化局の管轄領域である神社なのだけど、それによって神社が子どもたちにとってのアジールになるなど、こうした宗教的施設が電子的な管理と重ねあわせられるのも、民俗学的に興味深い。

20160724

遊びは人が生み出すもの

実は、『ウェブ社会のゆくえ』という本を書くにあたって下敷きにしたのは、社会学や地理学だけでなく、民俗学の考え方だ。民俗学には、ムラの境界を表すことばとして「ヤマ」「オクヤマ」といった言い方がある。「おじいさんはヤマへ芝刈りに」というときに示されているのは、山岳地帯ということではなく、村の境界の少し外にある、資源採取が許されたコモンズのことだ(だから芝刈りができる)。こうしたヤマの地域を超えると「オクヤマ」と言って、入ると帰ってこられない異界に近い扱いをされる。そのためこうしたイメージ上の境界には祠や道祖神が置かれ、想像の世界を現実化する目印になっていたのだった。

もう勘の良い人には分かったと思うけれど、ポケストップの多くはイングレスのポータルを引き継いでいる。そしてそのポータルには、都会の中では見落とされてしまうような地蔵や祠、稲荷といった民俗的なスポットが多数含まれている。つまり、「ポケモンGO」をプレイするために近所のポケストップを探検して回っている僕たちは、知らず知らずのうちに、かつての社会が持っていた想像上の地理的境界を内面化し、イメージの地図の中を移動しているのだ。そう考えると冒頭の「神社でポケモンGOが禁止」というのも、ある種の「ポケモンからのアジール」が生み出されているともとれるので、興味深いと思ったのだ。

「ポケモンGO」がリリースされるにあたって、僕のところにも何本かの取材が来た。リリース前だったので大したことは答えられなかったのだけど、その中で話していたことのひとつに「これまでも日本では、ゲームが当初の意図を超えてユーザーの創発による新しい遊びの方にシフトしていくという現象が見られたので、今回もそのようなことが起きるのではないか」というものがある。

実際のところはまだ分からないが、ポケストップ巡りに夢中になる学生たちを見ていると、もしかするともう既に「新しい遊び」は生まれているのかもしれないと思う。人のほうを見なければ分からないそういう動向は、地域によっても年代によっても違うから「これがスタンダードな理解」というものはないかもしれないけれど、もう少し待てば、面白いことが起きるんじゃないかと期待している。

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