Post-truthを考え直すためのメモ

Post-truthを巡る話の参考になるかな、と思って、拙著『ウェブ社会のゆくえ』(2007)を読み返している。特に第5章の「事実」と〈現実〉についての話は、複数の関心が絡み合っているのでややこしいけど、それなりにヒントになる話が多いように思う。

この時点での僕は、「なぜ人は、自分の経験に先立って存在するできごとを無視して、”私は私の中にあるものだけで私として存在する”と確信できるのか」という、いまでいうと自己啓発研究につながる部分と、「なぜ人は、社会的に共有された意味のメモリアルではなく、情報技術が抽出する事実の組み合わせを真実だと考えてしまうのか」というネトウヨ研究以来続く社会観の問題のふたつに焦点を当てている。前者は後者の条件であり、後者が前者をドライブしているというのが僕の見立てだったようだ。

で、後者について注目しているのは、ネットで真実を見つけたとする人びとの「社会的行為」の水準、すなわち彼らがどのような内的合理性に基づいて、それを「真実」として受け止めるのかということ。マスメディア批判に現れる「偏向報道」という言葉が示す「偏らない事実」への志向から見えるのは、解釈を経ない生の現実こそが優越するのであり、またそれらについての解釈は個々人の任意による、言い換えれば「私の中にもともとある枠組みで解釈することが、誰かの教えや価値観に影響されたものより尊い」とする考え方だ。

それを本の中では「葬式における遺体の撮影行為」や「UFOがかつてより信じられなくなったことに見る『小文字の〈現実〉』の前景化」といったことから論じている。この当時はほとんど仮説止まりであり、多くの人はそこまで抽象化した考え方をする必要はないと受け止めたろうけれど、今にしてみれば、Post-truthはもう10数年に及ぶトレンドの帰結であることが分かる。

近年の言説と結びつけるなら、たとえば「反知性主義」だろう。宗教学的にどう読むのかは分からないけれど、僕の解釈ではアメリカの反知性主義は、プロテスタントの万人司祭主義をルーツとして、宗教的権威によらず「自らの中の純粋な信仰心」を尊び、さらにそれを扇動家が生む熱狂の中で表出することの快楽と結びついている。ゆえにアメリカのポピュリズムは、格差などの経済問題を別にしても、「権威の語る事実ではなく、俺達の中にある本音」の表出という快楽でドライブされることになる。

もうひとつは、反グローバリズムと市民主義の問題だろう。日本の中ではいまひとつ微妙な扱いだが、Post-truthを古典的な衆愚政の現れと見る立場に対して、たとえばトッドなんかは(相変わらず)反グローバリズムこそ市民の声の代表、民主主義の正当な発露と考えている。だが現代の反グローバリズムは、民主的なガバナンスの回復というよりは、容易に分離主義 Separatism に結びつくわけで、ちょっと2000年代前半のグローバル市民主義みたいな話とは区別して理解した方がいいように思う。おそらくここでも「まっさらな私であること」への志向が、通奏低音として流れている。

2010年代は、社会学的な問題提起に対して、経済学・政治学・法学的な解決策が求められた時代だった。しかしおそらく2020年代を迎えるにあたって必要なのは、「解決すべき問題はなにか」「なぜ解決策が拒否されるのか」といった、人々の社会的行為の水準での分析と思考なのではないかと、そんなことをぼんやり考えている。

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