すきなら、すきと


ここ数日、右から左から同じ話の朗読が聞こえてきて、そのたびに泣いている。自分で読んでも泣いちゃうけど。

初めてこのお話を聞かされたのは高校生の頃で、そのときもデート中のファーストフードで泣いてしまったのだった。でも考えてみれば自分の児童書との出会いは、おそらく親の関心もあって、自立だったり、あるいは人は死して残るものの方に価値があり、最期は一人で旅立つほかないものなのだという死生観、言い換えれば「残る側」ではなく「残す側」としてどう生きるかというものが多かったように思う。『ぼくを探しに』とかも、僕にとってはそっちだなあ。

こうした「縮約的問題設定」(個別の出来事には、それを超えた大きな意味がある)による世界解釈は、他者を巻き込むとすぐ「大義のために死ぬ」ことをよしとする社会、もっと小さなレベルではブラック労働を呼び出す(参照)ので、なるたけ自分以外には適用しないようにつとめているのだけど、僕の周囲にいる学生たちはどちらかというと「個別的問題設定」(個別の出来事には、それ以上の意味はない)でものごとを捉える人が多く、具体的なレベルであれ抽象的なレベルであれ、現世をどう解釈し、生きるかという姿勢が基盤にある。たまにいる運命的な縮約(〈世界〉による包括=運命系)を行う子たちは、自分たちの鬱屈感を先取りして、自分を「非リア」認定することで、この感覚の差から目を背けているようだ。

僕はどちらかというと「いずれ死ぬって思ったらすべてのことは小さな出来事だよね」と考えるタイプ(〈自己〉による包括=悟り系)なので、現世を大事にしたい人たちから見ると、感覚の調整が難しいタイプに見えるだろう。いまを大事にする、目の前の人を尊重する、人の多面性を認める、そのために種々の社会的儀礼を交わす、そうしたやりとりは、社会において無駄どころか必要不可欠だと理解はしているけれど、僕にとっては社会が円滑に運営されるためのゲームのパラメーター以上の意味を持たない。「好きなひとがよころぶから」という理由でクッキーを手焼きする人の営みはとても美しいとは思うけれど、僕の中にその感情はない。

ただ一方で、そのパラメーターとフラグの管理が、ここ数年でずいぶん高度になったなあという印象はあって、それは社会学的にとても興味深い現象だとは感じる。組織の運営ひとつとっても、教員と学生の気持ちのすれ違いや距離感があちらこちらで問題になっている。それは人のメンタルが変わったのではなくて、組織運営がとても情緒的になり、マネジメントが感情労働になったことの現れなのではないかと思う。恋人や親のような親密さではなく、かといって機能的に結びついた他人とも言えない、「私のことを見てくれて、分かっていてくれる距離」に、マネージャーが立たなければならなくなっている。

こういうことを考えたのは、年末のゼミの個人発表で「他者への配慮」や「関係性の構築」をテーマにするものがたまたま多かったからで、さらに言うとそれは僕自身の学生に対する接し方の失点の裏返しでしかないのだけど、その中身に、「もっと気を使おうよ」というような単純なメッセージではなく、物事には多様なコンテクストがあること、同調するだけではよい関係は築けないこと、正しいことを正しいと言えば話が終わるわけではないこと、そういう高度な前提が、すでに織り込まれているあたりには舌を巻いた。

2016年は、ウェブ上のコミュニケーションにおけるコンテクストの差によって起こる炎上への不安が極度に高まった年かなとも思う。こう言ったらこう取られるかも、という怯えから、逆に傍若無人であることこそ正義!という人と、もう何も言いたくないという人に二極化したように見える。でももしかしたら、ほんの少しの萌芽かもしれないけれど、「ズレるのは当たり前、ズレた後でどうするか?」を真剣に考えている人たちの言葉が、説得力を持ち始めているのかもな、と感じたのだった。来年はもっと生きづらい年になりそうだ。

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