消費社会論の停滞

雑記

朝ランニングしながら、「なぜ、消費社会論の研究は停滞してしまったのか」というお話について考えていた。どう遡っても、2000年代の半ば以降、消費社会についての理論的な研究は出ていない。「マクドナルド化」で知られるジョージ・リッツァが創刊したジャーナル「Journal of Consumer Culture」を読んでも、せいぜい「再魔術化」と「ディズニー化」くらい。しかも後者は、インパクトはそれなりにあったけれど、理論というには概念的な整理が弱いコンセプトだしなあ。

確かに、70〜80年代の消費社会論がもつ「記号論」「都市の祝祭」「誇示的消費」といった概念が、過渡的な、ぶっちゃけて言えばバブリーなものであったことは疑いようもない。そもそも消費社会論は需要の限界を乗り越えるマーケティング言説と随伴してきたわけで、資本との距離も近い。どうしても「需要のないところに需要を生み出す」ことを肯定する話になりがちで、さらに言えば、それで本当に需要を生み出したのかどうかも怪しい。この辺は、間々田先生が90年代から00年代にかけて整理されていたところ。

ただそこに発送の転換で、消費社会化による「供給の限界」を乗り越える可能性を見出した三田先生以降、それを発展させようとした人ってほぼいない。三田先生がエキセントリックすぎて後に続けなかったのかもしれないけれど、本当は『動物化するポストモダン』の延長線上にそういう議論があり得たはずなのだと思う。でも、社会学からそれを大きな社会変動論として引き受ける流れは生まれなかった。一方でマーケティングを裏打ちする研究としては、高度化したマーケティング理論や心理学をベースにした消費者行動論、近年では物理学畑からビッグデータ解析とかになっているのが現状。こちらの方はより直接的に「需要を喚起する」ためのメカニズムを解明しようとしている。

もう少し広い視野で見れば、格差社会化だとか金融危機だとかを受けて、世界的には消費社会化を批判するのが世界的な流れになっている。とはいえこちらも「消費社会は大企業がつくったものだ」とか「資本主義は人のこころを豊かにしない」とか「サステナビリティのある社会を」とか、それぜんぶ、『現代社会の理論』で話が終わったことなんですけども、という。おそらくは「消費社会」が「大量生産・大量消費」の近代型モデルとして理解されていて、それこそサステナビリティ派の好きな、情報技術を使ったニューエコノミーなんていうのは消費社会の中に入っていないのだと思う。

というわけで、きちんと「背骨」になる消費社会論を学ぶには、まず古典に返って、その上で現代のことを考えましょう、となるわけだけれど、ちょっと現代の若者かつ初学者向けにはハードルが高い。おそらくは数年単位で「定番」のカリキュラムを回しながら、先輩からのアドバイスを含めて研究を深める体制をつくらないと無理なのだけど、その動機を生み出すところからハードルは高そうだなあと思ったのでした。

※Facebookの投稿を改稿

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