「頭がいいこと」についてのメモ

知性について考える。そのことじたいがソーシャルメディアに不向きであることを承知で考える。「頭がいい」という形容で示される内容は、おおむね以下のようなものだ。

(1)頭の回転が速い、つまり会話の受け答えにおいて、可能な限り多くの変数を考慮に入れて応答できること。バラエティ番組で、微妙に炎上を避ける言葉遣いや気遣いができたり、その上で自分の価値観を主張できたりすること。あるいは、ナイスであること。

(2)知識の量が多い。トリヴィアルなものも含めて、その場の多くが知らないことを提示できること。海外の情勢について解説したり、特定の専門領域から特定の問題について筋道を立てて説明できること。言い換えると、答えを知っていること。

(3)思考のロジックがしっかりしている。思いつきや恣意的な決断ではなく、データから帰納したり、前提から演繹したりして結論を出すことができる。実際には、直感的な結論に対して論理的な裏付けを求めているようなケースもままある。

それぞれの「頭の良さ」は、周囲の人間にとって、それが必要とされている度合いと、直面する相手の能力の相関で評価される。友人関係が主たる関心を占める若者にとっては(1)のような頭の良さは必要とされ、また実際にそのように振る舞うことで尊敬されるが、(2)のような頭の良さは「成績」という評価以上に意味を持たないこともある。

逆に社会に出て、年齢や価値観、場合によっては文化や言語の異なる人にカネや労働力を出してもらおうとする際には、(2)の知識量や(3)のロジックが求められることになるかもしれない。ただ、現場に入りたての頃は(1)のコミュ力で信頼を得ることができることもあるだろう。逆に幹部候補生として期待され、一貫して(3)のロジックを要求される若手もいるかもしれない。

マスメディアでコメントしたり、番組に出演したりしていると思うのは、そこで(1)のコミュニケーターが専門家から(2)の知識を引き出すことがフォーマット化されていることだ。専門家は、多くの場合(2)で要求されている知識が的外れだったり結論ありきだったりすることに憤るけど、フォーマットそのものに不満を感じている例はあまり見たことがないように思う。

実際には、現場でのスタッフとの会話を通じて(2)にどのような知識を求めるかを考える過程で(3)の知性が要求され、それが専門家の満足度を高めるといったこともあるけれど、それはあくまで隠されるものであり、「完成品」に対する「プロセス」という意味合いしか持っていない。

他方で教育の現場においては近年、(3)の能力を求める度合いが強まっている。(2)の知識的な基盤がない人が思いつきや付け焼き刃の情報をもとに考えたことにいかほどの意味があるのか、という批判もあるし、僕も強く共感するけれど、(2)+(3)を可能にするための時間は、(1)の世界で生きてきた若者をスタート地点にする限り、どれだけあっても足りないと思う。

不完全であることを承知で「頭の良さ」を教育で伸ばそうとするならば、(2)に軸足を置いて、卒業後に思考力を高めてもらうか、(3)に軸足を置いて、参考にすべき知識を選別できるようになってもらうか、ということになるのだろう。それもおそらく個々人の中でバランスがあるし、最後まで(1)の世界でナイスに生きていく人もいるはずだ。

そのベストミックスを構築できるかどうかで、僕らの評価は大きく変わるのだと思う。環境と利用できる資源によってベストミックスの中身も変わるし、時期によっても違うのだと思うけれど、それを模索する作業そのものが、僕にとってはもっとも知的でクリエイティブな作業であることは間違いないと思う。

※Facebookより転載

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