人と働くということ

雑記

「夢のお告げ」というか、夢に見たことをもとに自己分析することが多い。早くに目が覚める原因もほぼそれだ。それで今朝(?)に見た夢、詳細は説明できないので読み取った内容だけ言うと、「事業拡大のために、パーマネントなスタッフを雇え」だ。

それはもちろん頭では理解できていたことであり、周囲を見渡しても、趣味のような仕事を上場企業にまで成長させた人から、研究に対する補助は(時限付きで)無休でも喜んで働くのが当たり前というブラックな人まで、スタッフとの共同作業、というか、指示して仕事を投げる相手を確保するワークスタイルを取り入れている人は多い。僕がそれをやらない理由は、外部研究費を獲得して人件費を確保するのがめんどくさいからでも、無休で人を働かせることに対する良心の呵責があるからでもなく、「僕の頭のなかにあることが、僕しか分からない」からだ。

官僚制の研究に従うなら、組織というのは維持することが目的の集団であり、そこでは文書による命令体系と前例によってイレギュラーを排しながら業務が遂行される。属人性が組織にとってもっとも問題視されるのであり、トップが代替わりしようと幹部スタッフが抜けようと、組織は維持されるのである――組織を成立させている環境が変わらない限りにおいて。

近年ますますビジネスの世界では「環境や競争条件は変わると思え」という考え方が流行している。ある環境に最適化して作られた組織が、条件の変化に適応して自己組織化する速度よりも、条件の変化のほうが速いというのだ。こういうメタ条件を設定したときに、組織の規模を拡大することは、それだけでリスクになる。リーンスタートアップ、イノベーション、ケイパビリティ、ネットワーク、様々な横文字が「変化」を要求し続けている。

確かに大学の仕事は、変化という点ではゆるやかだ。特に勤め先のような大規模学部だと、大学という場にコミットするモチベーションの幅も大きい。流動性は高く、事務スタッフは定期的に異動になるし、学生は粛々と卒業していく。一方でフィードバックと方針転換は最低でも年単位になる。矛盾するようだけど、集団としての凝集性が低いために、全体として変化するためには時間がかかるのだ。

こうした条件下では、教員は「一人親方」として研究室の運営に当たることが多い。既に述べたとおり外部研究費を原資に、大学院生にバイト代を払いながら、所属する研究室の学生はみな研究室のミッションのために奉仕する前提で研究課題に取り組むというケースが特に理系には多いようだけど、文系の場合は「自分の頭が資本」で、各自に独自の研究課題があり、他方で共有の資源はほぼないから、研究室と言ってもゆるやかに集まってときおりアイディアを交換するくらいしかすることがないという人も目立つ。

いきおい、研究室の運営方針はボスである教員の関心によって決定されることになる。またそれが変更される場合にも、入れ替わっていく学生やスタッフがそのときどきに応じてボスの指示に従えばよいのであって、「去年まではこうだった」ということにこだわりさえしなければ、かなり柔軟に方針変更を行うことができる。

問題は、その方針変更が論理的なものというより直感的なものである場合、そして、その変化のために必要な資源を、ボス自身も把握していない場合だ。この数年に直面した課題というのがまさにそれで、ひとつひとつの課題はそれぞれに重要だとはいえ、その「点」と「点」がどのような「線」を描いているのかを理解するために、相当の時間を要してしまった。

それは、現在の自分の能力から言えば、仕方のないものだったと思う。言い換えれば、これ以上のスピードと論理性を追求しようとすれば「一人では無理」ということだ。

研究室運営以外のところで他のスタッフとの協働作業が増えたこともあって、指示を出すとか、論理的に方針を説明するといったことも、それなりに気を使うようになった。方針決定についてワンマンであることに変わりはないので、次年度はもう少し人の話を聞こうとは(今年も)思っているけれど、これまで以上に人を頼るところは出てくるはずだ。それが雇用にまでつながるかどうかは、それこそ自分ひとりで決められることではないので保留だけど、企業でいうところの「相談役」くらいは欲しいところ。いや相談役ってリアルに何してる人なのか知りませんけど。

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