気づきのサイズ

今学期は例年と比べて講義負担が多いのだけど、そのうちのひとつに、大学全体で提供している人権科目のTAがある。専任教員がTAというのも変だけれど、要するに新人の教員に大学の精神を学んでもらう機会にするための仕事で、たまたま今年は僕が担当することになったという。

科目としては、障がい者の人権がテーマであり、障害(バリア)としての社会がいかにして障がい者との共生を阻んでいるかという視点から、複数の講師がオムニバスで講義を担当する。福祉の研究者から施設職員、そして重度の障がいをもった当事者まで多彩な方々が登壇し、人の講義を見るという上でも、また内容的にも学びが多い。話題になっているバニラ・エアの搭乗拒否の件も、電動車いすの当事者に海外旅行の話を聴けていたおかげで、ネットの論争を少しだけ客観視できている。

学びというのはセレンディピティだから、初発の段階で「これには意味がある・意味がない」という判断をしていても、広がりは生まれない。教義の専門的な研究においてはそういう切り捨ても必要だけれど、大学のカリキュラムに組み込まれたこうした科目が、学生たちの学びや視野を広げる点で重要であることはよく分かる。

けれど学生たちにとってはそうでもないようで、この種の科目はかつての「パンキョー」に準じる「カモ科目」であり、「座っていれば単位が取れる」という認識で出席する学生も多い。また履修者が増えすぎたために急遽変更になった教室は音響の環境が悪く、講師の声が聞き取りづらいこともあって、驚くくらいに受講マナーが悪化する。結果、動物園状態の学生たちを注意しに行くストレスで、その日いちにちの僕のパフォーマンスが低下するという問題を抱えるハメになる。

もちろん、個々の学生にはそれぞれの思いや関心もあるのだろう。大学での講義に慣れた人が話せばそれなりに聞いてくれたりもするわけで、そういう問題もあるのかもしれない。ただそこまでサービスされない限り聞く気にならない層が、授業運営に支障が出るほどに発生するのには、組織風土やキャンパス環境などの構造的な要因が関係しているように思う。

そのことについては気が向いたら比較研究とかしてみたいのだけれど、ひとまず担当している人権科目について言うなら、やはり感じるのは、彼らの触れたことのない問題に関心を持たせ、考えさせるのに適正なサイズだ。コメントシートを見る限り、熱心に話を聞いて考えようとしている学生は少なくないし、単なる「優等生」の姿勢で終わらない気付きを得るケースもあるようだ。ただ一方通行のマスプロ形式では、そうした意欲や気付きが全体へとフィードバックされづらいし、結果的に成績評価によるサンクション以外の手段が使えなくなる。

こういうことを考えているうちに見かねて改善や提案に乗り出し、結果的に仕事を増やして首を絞めるというパターンを繰り返してきたこともあって、できるだけこの科目についても黙っているつもりだったのだけれど、そんなことがいつまでも続くはずもなく、気づけばいろんなことを試している。新人に戻ったつもりで奔走するのも悪くはないのだけれど、今回は自分の科目でもないし、どうにか自分にとっても気付きの多い仕事にしたいのだけれどなあ、という愚痴なのでした。(転載)

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