雑記20171108

先日のラジオ番組のために、「時間」についていろいろ考えたら、その後も思いつくところが多くて楽しい。

簡単にまとめると、ベンジャミン・フランクリンの「時は金なり」に代表されるように、近代の資本主義は極力「無駄な時間」を削り、生産のために時間を振り向けることをよしとしてきた。いわゆる「生産性」という概念も、フォーディズムの世界においては「単位時間あたりで生産する量を増やすこと」という意味になる。生産を増やせば社会が豊かになるという単純な関係が、そこにはある。だから、経営者は労働者をできる限り長時間働かせたいし、彼らには道具のように動いて欲しいと考える。フォーディズムの世界の労働争議は、こうした非人間的な働き方に対する「人間回復」を争点としていた。

ところがポスト・フォーディズムの世界では、経済を駆動するのは生産ではなく消費だ。ここにきて、生産性の考え方は大きな転換点を迎えることになる。まず、労働を集約して投入量を増やせば成果が上がるわけではなくなったということ。むしろ重要なのは、消費者のニーズに応じて生産量を調整することであり、そのためにフレキシブルな労働を導入することだ。そして同時に、労働者が同時に優良な消費者になるよう、彼らの余暇を確保することが求められるようになる。消費の対象が「モノ」であった時代には、働いている間にも家庭にモノが増えれば豊かさを享受することができたわけで、かつそれが「男は生産、女は消費」のようにジェンダーで振り分けられていたから、男を長時間労働させても問題はなかった。むしろそれによって得られる高い給与こそが、彼らの「甲斐性」の証だった。

だがポスト・フォーディズムの世界で消費の対象になるのはサービスであり、価値であり、そしてそれを味わうための「時間」なのだ。だから経営者は、労働の成果を減らすことなく、彼らに消費のための余暇を提供しなければ、事業が立ち行かなくなる。問題は、労働の成果を減らすことなく余暇を提供するための工夫が、経営層にとっては困難であることだ。現場の課題はそれぞれに違うし、解決法も人によって違う。結果的に(最近よく批判されるけど)、「労働時間は強制的に短縮するから、自分たちでなんとかして、いままでより短い時間で同じ成果を出せ」という言い方しかできなくなる。

松岡真宏の『時間資本主義の到来』という本は、この文脈で考えたときに非常に面白い論点を提示していると思う。彼の主張の趣旨はこうだ。すなわち、人類はその発展史において、自然など自分たちの思い通りにならないものを技術でねじ伏せ、コントロールすることで文明を築いてきた。そして現代において人類が思い通りにならない最後のフロンティアが「時間」なのである。しかるに、この時間をコントロールし、これまでであれば無為に過ぎていた「スキマ時間」すらも消費の対象にする発明が登場した。それが情報技術だというのだ。実際、僕たちはこれまで人とコミュニケーションをするときに、長い時間をかけて手紙を書いたり、それを送って返事を待つ時間というものを持っていたわけだけれど、いまやそれは、「見ました」ということを確認するためのスタンプで済まされてしまう。よく男女の諍いで「なんでLINE返してくれなかったの?一言メッセージを送る数秒の時間もなかったの?」というやつがあるけれど、あれこそ、一分一秒でも隙間があればコミュニケーションのために用いることができるという情報技術がもたらした感覚だと言えるだろう。

松岡は、こうしたスキマ時間をビジネスターゲットにして事業を展開する余地が増えていることを指摘しつつ、もうひとつ面白いことを述べている。それはすなわち、スキマ時間が利用できるようになるなら、個人がそのスキマ時間を利用して副業を行ったり、自己研鑽のための時間に充てたりするようになるということだ。これは今年のビジネスでいうと「タイムバンク」なんかの登場に表される「副業時間の利用」を予言した非常に慧眼の指摘だと思う。

もっとも注目すべきは、僕たちが、これまで取りこぼしていた時間をコントロールできるようになったことで、時間が「投資の対象」になったことを明らかにした点だろう。現代における「時間」は、あるだけ労働に投入して生産性を上げるものではなく、高度な自己統治の中で、生産性の高い労働時間と充実した余暇を得るために効率的に「使用」されるものになっている。3年生の秋になると、タスク管理の方法についてレクチャーを受けることになり、影響されたゼミ生がこぞってロフトで手帳を買い求めるという(ある意味で気持ちの悪い)光景が展開されるのだけど、そこで僕が強調しているのも「休むためにこそ時間とタスクを管理しなければならない」ということだ。

だが「時間を投資の対象にする」という考え方に、どこか居心地の悪さを感じるのも事実だ。僕たちはもっと無為にだらだら過ごしたいし、友だちに悩み事を相談されたら、後の時間を決めずにとことんまで付き合ってあげたいと考えている。恋人との時間を「君と過ごせるのは何時から何時まで」と決めて行動すると、「この人は本当に自分のことが好きなのだろうか」と思われるだろう。つまり、時間の資本主義のポスト・フォーディズム化は、一方で「効率的に時間に投資する」ことを求めるのだけれど、他方で「無制限に時間を浪費できる」という究極の贅沢を生み出しているのだ。

困ってしまうのは、「時間への投資」に他者が介在するときだ。「部活の時間は効率的に使いたいので、ミーティングの時間も最小限にしましょう」と部長やコーチが宣言することで、そのチームの結束感やモチベーションは高まるだろうか。むしろそうした「ドライ」な人間が距離を置かれていく一方、「自分のために無制限に時間を使ってくれる」人間が信頼されることになる。結果的に僕たちは他者からの信頼を得るために、関わっているそれぞれの人に対して無制限な時間の投入を求められることになる。言い換えれば、その相手のことを最優先し、他の人をないがしろにするそぶりを見せる、つまり相手に「独占」されることが信頼の条件になる。忙しくて大変そうな学生さんたちを見ていて思うのは、あまりにも多くの人々の「独占」を受け入れた結果、首が回らなくなっているように見えるということだ。

この問題は、その時間が取引対象になるとき、より先鋭化する。既に述べたとおりポスト・フォーディズムの世界において消費の対象になるのは、究極的には「時間」なのだ。その時間のコンフォートネスを高めるのは、時間が「無制限」であることだ。だがたとえ買う側が無制限な時間を欲しても、売る側は無制限に時間を提供することはできない。しかも消費者は、売ってくれるなら誰の時間でもいいと思っているわけでもない。この「コンフォートな時間の奪い合い」こそが、実は情報化が進んだ現代における、もっともラディカルな市場になるのではないか、そんなことを考えているのだった。

(Slackより転載)

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