雑記20171223

社会学者というのは、自分のことを棚に上げて社会現象を分析する仕事だ。もちろん教科書的には、自分が社会の中に含まれていることを忘れてはいけないと書いてあるけれど、それは「自分のことを棚に上げるな」という意味ではない。自分の研究が社会を動かすことで、分析したことの中身が変化してしまうことを自覚しろという意味だ。

たとえば結婚について、客観的で中立的なデータを取ってそれを公表したとする。でも人びとはその結果を見て「年収○○○万円以上の人しか結婚できないのか!」といった読み取りをして、結婚と年収の関係が変化してしまうことが起きる。それを自覚するのが大事なのであって、「大学の研究者だって高額所得者なのだということを忘れるな」という話と混同してはいけない。

で、そうやって自分のことを棚に上げて研究しているもののひとつが、女性向けの自己啓発。僕にとっては「なんかもやもやしてて整理できてないんだけど、ここに大事なことがある気がする!」という分野であり、おそらくは個人的な恨みも含めて気に入らないことが多々あるからこそ無視できていないという、そういう分野だ。

この数日間、そうした分野の中でも割と注目され、影響力をもっているある方が大炎上している。最初のきっかけは彼女が受けたセクハラの告発であり、海外でブームになっているmetooの流れもあって、勇気ある告発を支持する声が多かったのだが、彼女の以前の言動や、それを批判する声に対する返答がまさにセクハラ的なものだったこともあって、彼女自身が非難されることになった。

ハラスメントの話というのはものすごく文脈依存的だから、できる限りこの話は聞かなかったことにしてスルーしたいなあと思っているのだけど、一点だけ、彼女が批判に対して謝罪したツイートを削除し「あまりにもわーーっと大量に誹謗中傷がきたから、納得いかないけど、とりあえず謝って済まそうみたいな心境だった。私らしくなかった。」と語っていたところで、さすがに頭を抱えた。

おそらく僕が「彼女たち」のコミュニケーションとスタイルの中でどうにも扱いに困るのが、平気で他人を踏み台にする場面をよく見かけることと、自分の社会的な評価を「私らしさ」の一言でキャンセルしてしまえるある種の強さ(厚顔無恥ともいう)なのだけど、そこには現代の自己啓発がもつ、非常に構造的な問題があるように思う。

自己啓発というのは、言ってみれば「社会/他人はどうあれ、私はこうだ」という意志を強くもつための「自己のテクノロジー」だ。それは、誰もが同じ人生を歩むとは限らなくなった社会では必須のテクノロジーであり、態度であり、スキルなのだ。だがそれが、そのようなメッセージを発信することで収入を得る「自己啓発ビジネス」になったときには、話が違ってくる。

「私はこうだ」という意志を強くもてる人は、そんなに多くない。結果的に「私」のスタイルやモデルになりうる人は、自己啓発の指針としての役割を担うことになるし、彼女たちへの共感者が多いほど周辺のビジネスは拡がるわけだから、悪い大人がそういう女性たちを囲い込んで儲けたり、競争相手を蹴落としてでも自分のところに支持者を集めたりする黒い部分が出てくる。今回問題になった件の中心にいる彼女にしても、ソーシャルメディアでエッジの立った「私」を発信することが、一定の支持者(と批判者)を集めるというビジネスの立ち上がり時期にたまたま重なったから、そのビジネスの闇の側面から抜けられなくなっているのだろうと、そんな感想を持つ。

個人としては、会ったこともない人の判断はできない。ただ僕の周囲にも炎上芸人みたいな人は多いから分かるのだけど、ああいう人は、ソーシャルメディアではどうあれ、直接の関わりをもった人に対してはすごく親切だしマメだ。「仲間以外はどうあろうと構わないが、身内にはとことん尽くす」という態度は、ジェイン・ジェイコブスのいう「統治の倫理」であって、老獪な政治家をはじめとして、社会の様々なところに見られるものだと思う。おそらくソーシャルメディアの周辺で起きているのは、その「身内」をスクリーニングする方法が、実際に対面している人と、ウェブ上の共感者という二重構造になったということなのじゃないか。

たぶんこうした二重構造の中で、一時的に支持者として認定されたり、逆にさっくり切られたりする場面が目立つのは、やはりソーシャルメディアが「ことば」の世界だったからなのだと思う。以前も書いたことだけど、文脈のないことばは人とのすれ違いを生むし、そうなればこそ「ことば」に期待することなくリアルでの対面を重視する流れになっているような気がする。そういう意味で、今回のようなケースは、たぶんトレンドからするとちょっと古い、まだ炎上とかしてるの、的なものなのだと思う。でもそれは、結局は島宇宙的な小さな身内をたくさん生んで、いわば自宅でお紅茶の教室を増やしているような状態にすぎない。それが「社会」としての変化ではなく、無数の小さな「私らしさ」を生むことにしかならないのだとすれば、なんだか寂しいような気もするし、それが時代の流れなのかなあとも思い、やっぱり僕は頭を抱えるのだった。

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