「インスタ映え」が批判される理由――スマホレス消費の未来

社会学者の常なのかもしれないが、僕の担当する科目のカバーする範囲は広い。たとえば大学で教えている「情報社会論」では産業構造と雇用の変化だとか情報技術と監視社会の問題だとかを扱う一方で、「グローバリゼーション論」では国際関係論や市民社会論に言及していて、受講する学生もふたつの科目でずいぶん傾向が違う。そんな科目の中でもゼミは特殊で、消費社会論を軸にしながらも、「ネットですべてが取引される時代に、情報化されない価値とは何か」という現代的なテーマに取り組んでいて、既存の科目の範囲からはやや外れる。教員の関心を中心に据えながら、学生たちが各々のテーマを持ち寄って研究するスタイルは一般的な研究室の運営方法ではあるけれど、それだけに外部の人に説明しづらいところもあって、年に一度くらいは研究したことをまとめてみないといけないプレッシャーがある。昨年の「体感消費とは何か」というエントリはそのために書かれたものだけれど、今年はその延長で行った「スマホな消費・スマホレスな消費」というテーマについてのまとめを書いてみたい。

ゼミの研究テーマはこれまで前年の夏に決めることになっていたので、「スマホ/スマホレス」というコンセプトも2016年に着想したものだ。だが気づけば2017年はまさに「スマホな消費」がピークで話題になった年だった。「インスタ映え」が流行語になり、国内で言えばナイトプールのような「インスタ映え」に特化したサービスが注目。世界的にもカラフルなスイーツだとかピンクに塗られた壁だとかハート型に見える自然の風景だとかが観光地化して、インスタで話題と聞くと人が殺到する光景がまま見られた。共同通信社によると、一面がブルーに染まる風景がインスタやキュレーションアプリで拡散されて話題になった国営ひたち海浜公園のネモフィラのケースでは、「ゴールデンウィーク」のハッシュタグが付けられた投稿の中で1位だったのは、東京ディズニーリゾートではなく国営ひたち海浜公園だったという。最近では総理自ら地方活性化の鍵としてインスタ映えを推すくらいだ。

他方で、インスタ映えを巡って揶揄や批判が噴出したのも今年の特徴だ。ナイトプールに対しては「プールに入らず撮影するだけ」という姿勢に疑問の声が上がったし、それ以前から飲食店で料理を撮影する際のマナーが問題になっていた。スターバックスの「ドーナツを乗せたドリンク」を真似て「マクドナルドのバーガーをドリンクの上に乗せてストローを刺す」という写真には「食べ物を粗末にするな」という批判が出たけれど、こうした例に見られるように今年は、「撮影のために物を粗末にしたり周囲に迷惑をかけたりする」のがインスタ映えの負の側面であるという意識が定着したといえる。その中には「撮影したかき氷を食べずに捨てていた」といった都市伝説に近いものも見られたが、僕の考えではそれは、世の人が「撮影された写真に価値の中心を置く」という消費のスタイルに追いついていないために出てきた「時代の気分」にほかならない。

「撮影すること」や「撮影された写真」に価値の中心があるような消費は、今後どうなるのだろう。ここでマーケティングの人なら写真共有サービスの特性や利用者の心理に注目するところだが、社会学を研究する僕らが扱いたいのは「写真が撮影される場」のほうだ。「インスタ映えするスポットの観光地化」という現象を考える上では、撮影する側の問題だけでなく、その場でどういうことが起きているのかを理解しておく必要があるし、もしもインスタ映えが批判も集めるようになれば、地方創生だとか観光立国といったお題目さえ怪しくなる。表面的なトレンドを追いかけて「これからはインスタ映えだよね!」と持ち上げたとたんにブームが終わるなんてのもよくあることだ。ここはひとつ、今起きていることを「スマホな消費」と位置づけてみて、抽象度を上げた社会学理論の立場から検証してみる必要があるのではないか。その上で「インスタ映え」がもたらすもの、その問題点や将来の展望などを考えてみたい。

1.現実空間を演出する

まずは現状を確認しておこう。「平成28年情報通信メディアの利用時間と情報行動に関する調査報告書」によると、Instagramの利用率は2015年から2016年にかけて、10代で24.5%→30.7%、20代で31.5%→45.2%、30代では18.5%→30.3%と、いずれも増加した。ちなみに10代に注目すると、Facebookで23.0%→18.6%、Twitterでは63.3%→61.4%となっているので、ソーシャルメディアの利用が減少するなかで、LINEを除いて増加したと言っていいのはInstagramだけだ。

その背景にどんなことがあるのかを推測するのは難しい。理論社会学とはある意味ではその背後仮説を提案する仕事だと思って考えるならば、ソーシャルメディアの利用者が増加したことで、コンテクストを共有しない人びとへの気遣いが必要になったり、内輪のコミュニケーションへの閉塞感が生まれたりしたことによる「大移動」の兆しといえるかもしれない。言葉だけのやり取りだと誤解を生むけど、スタンプや画像でのコミュニケーションなら、その辺を曖昧にしたままでいられるよね、なんていうのがInstagram流行の初期に言われていたはずだ。

ただ目新しい現象として注目されているのは、そこで行われるコミュニケーションが、あからさまな自慢や幸せ報告を伴っていると受け止められていることだろう。この点については、ソーシャルメディアが孤立不安を煽る仕組みについて『ウェブ社会のゆくえ』という本に書いたので詳しくは説明しない。要するに、他者とのコミュニケーションを披露する場であるソーシャルメディアは、往々にしてひとりのときにアクセスするものであるがゆえに、「自分は孤立しているのではないか」という不安を掻き立てる構造になっているのだ。

また、それが同時に消費行動についての発信になっていることについては、「顕示的消費」という古典的概念で説明が可能だ。消費と幸せのイメージが結びつきがちな高度消費社会においては、ソーシャルメディアでの消費の発信も憧れや嫉妬の対象になる。「誰それと何をした」という自分の行動を、写真や動画で表現する現在のInstagramの利用法は、「誰それ」の部分で孤立不安が煽られ、「何をした」の部分で顕示的消費による嫉妬が煽られるものになっているわけだ。

いわゆる「インスタ映え」消費は、そのメカニズムが副次的に生み出したものだと言えるだろう。つまり、美しい写真を撮りたいから消費しているというよりは、誰かとそこに行ったことやその消費が、憧れの対象になるように「演出」することが、行為としての「インスタ映え」消費の意味だ。というのも、それが撮影の角度やフィルターによって切り取られ、加工されたものであることは、利用者であれば周知の事実なのであり、それを真に受けるほど人びとはナイーブではないからだ。

実は消費行動を演出することじたいは、決して目新しいものではない。かつて宮台真司は「現実の虚構化/虚構の現実化」という概念でそれを説明した。どちらも現実に虚構を持ち込むという点では共通しているが、現実の虚構化があくまで現実に基盤をおいて場を演出するのに対し、虚構の現実化は文字通り現実と虚構を取り違えるという点に違いがある。だが宮台によると、「確かな現実」という共通理解が失われることによって、両者の区別も無意味化してしまったのだという。

補足しておくと、ここでの「現実」とは、物理的な性質や尺度によって測定されるようなものではなく、そのような尺度を含めて私たちが共有している「現実感 reality」のことを指す。社会学の標準的な学説では、人びとが社会をどのように解釈し、いかにして現実にあり得るものとあり得ないものを峻別するかを決める基準は、社会的なコミュニケーションが生み出す動的なものであるとみなしている。人びとは場面に応じて様々な現実を生きるが、それらを束ねる「至高の現実 paramaunt reality」が、現実感覚を根底で支えているというわけだ。その典型例が宗教なのだが、近代化され、合理化された私たちの日常では、誰もが同じ世界感、現実感で生きているという確信を共有することができない。先の宮台の主張は、私たちが同じ現実を共軛可能だという確信が得られなくなったという話なのだ(少なくとも、「同じ現実を生きているはずだ」という主張に同意しない人間がいれば、その現実感覚は自明のものとはいえない)。

事態をさらに複雑にしているのが、スマホとソーシャルメディアだ。先に挙げた『ウェブ社会のゆくえ』において僕は、ある空間に共有された意味(授業中の教室であれば「生徒は静かにするべき」)が、スマホを介して送られてくるソーシャルメディアのコミュニケーションによって引き裂かれたり、上書きされたりする現象を「多孔化」と呼んでいる。授業中にTwitterやLINEを見ていて授業に集中していない学生を目にするのはもはや珍しいことではなくなったが、それは「授業中の教室」という場についての共通了解を喪失させてしまう。ある人にとっては「先生の話を聞く場」であるものが、別の人にとっては「難しい話をBGMに面白い動画を見る場」になるように、Instagramの侵入によって「おしゃれで静かなカフェ」は「おしゃれでインスタ映えするカフェ」という意味によって上書きされることになるのだ。

2.スマホと消費者行動

だがそもそも、なぜスマホが鍵になるのか。もちろんそれがモバイルなものであるがゆえに、あらゆる場所に持ち込まれるから、すなわち本来は別の意味を持っていた場所にソーシャルメディアのコミュニケーションを上書きすることが可能なデバイスだからということもあるだろう。だが「インスタ映え」消費の流行の背景を探る上で、それだけでは材料が足りない。おしゃれスポットは以前からあったし、タウン情報誌のような媒体で発信されてもいた。なんとなればそれは、プロのカメラマンによって撮影された、もっとも演出性の高いものだった。それにも関わらず、素人がInstagramに投稿した写真をきっかけに続々と人が集まるようになったのはなぜか?

その答えは、「ネットでの情報探索」に対する消費者行動の特徴にある。一般に消費者行動論においては、消費者は自分の欲求を満たす消費の対象を、消費に先立って探したり調べたりすると考える。これを情報探索行動という。現在もっともポピュラーな情報探索行動といえばネットでの検索だが、そこで検索される情報にも2種類ある。

ひとつは、性能とか機能、価格などの数字で表現・比較が可能なスペック的要素。これを商品の認知的特性と呼ぶ。もうひとつは「美しさ」などの消費者の感性に訴えかける要素。これを商品の情緒的特性と呼ぶ。ひとつの商品にはどちらの側面もあり、また明確に区別できない場合もある(素材がシルクだから肌触りがいい、など)。だが「インスタ映えする」というのは、その点では典型的な情緒的特性だと言えるだろう。

実は情緒的特性の探索行動とスマホの相性は非常にいい。言い換えると、認知的特性の検索には相対的に不向きだ。画面が小さいしブラウザのタブを切り替えるのも面倒だから、複数のお店や商品を比較するのには向かない。気に入ったお店や商品のスクリーンショットを大量に保存している人がいるけれど、あれこそ認知的特性の情報探索に不向きなスマホの特徴をよく示していると思う。一方で、「ひと目で分かる」感性的な要素については、画面いっぱいに広がる画像やスクリーンの美しさもあって、消費者に伝わりやすいものになっている。

こうした「情緒的特性の情報探索に向いたスマホ」という特徴は、それがリアルタイム性やモビリティと組み合わさることで最大限に発揮される。要するに「いま、この近くでいい感じのお店を知りたい」というアバウトな要望に応えるためには、グルメサイトで大量のお店の名前を一覧しても仕方なくて、イメージ検索やソーシャルメディア検索で「ピンとくる」お店を探すほうが早い。今年はキュレーションメディアだけでなく、レシピサービスにおいてもスマホ向けアプリの動画が流行したけれど、それもまったく同じ現象だと言える。インターネットがPCに向けた一覧性の高い、認知的特性に関する情報を大量に蓄積していくのとは対照的に、人びとは「いますぐ欲しくなる」情緒的特性を探索する手段を求めていたのである。

3.インスタ映え批判の理由

スマホによる検索が情緒的特性の情報探索に向いているのだとして、それがキュレーションメディアのみならず、Instagramにおける素人の投稿へと向かうのはなぜか。多くの人はそれが、先ほど述べた顕示的消費の効果、つまりやっている人がいるから羨ましくなるのだと考えている。だが当然のごとく「他者が何をしていようと関心はない」という消費者もいるわけで、説明としてはやや弱い気もする。プロの撮影した写真よりも素人がフィルターで加工した写真のほうが情緒的特性をもつと言われても、本当だろうかと思わされるところもある。

この不思議を解き明かすのに必要なのは、情報探索が行われる目的への理解だ。情報探索を行うということは、消費者は「なんでもいい」と思っているわけではないということを示している。自分が選ぶ商品について失敗したり後悔したりしたくないから、わざわざ事前に調べるのだ。

では情緒的特性をもった商品の選択で後悔しないためには、何を調べておけばいいのだろうか。価格や立地などの認知的特性は、この場合あてにならないか、参考にする程度だ。一方、検索していい感じの画像が出てきたからといって、それが「かわいい!」と思えるような情緒的特性を有しているかは分からない。そのために行われるのが「素人の盛れてない写真ではどうか」という情報の探索なのだ。最近では「ググる」ではなく「タグる」と呼んで、ハッシュタグの投稿件数を確認するという振る舞いも、こうした行動の中に入るらしい。インフルエンサー・マーケティングによる情報操作をあらかじめ折り込んでいる消費者たちにとっては、そうまでしないと情緒的特性の確からしさに安心できないのである。

その不安は、実は消費中も、そして消費後にも続く。インスタ映えスポットでの消費行動を観察していて目につくのは、とびきり盛れた一枚のために気合をいれて撮影に臨むのではなく、消費中にたびたびメンバーで自撮りをする時間を挟んでいるということだ。会話が途切れた瞬間であったり、新しい料理が出てきたタイミングであったり、ことあるごとに撮影は続く。そしてその写りをその場で確認している。この行動が示すのは、自撮りや写真の確認という行為には、「いま行っている消費が情緒的に価値のあるものである」ことを確かめる意味があるということだ。

そう考えると、消費行動を写真や動画で共有し、ソーシャルメディア上での反応を得るという行為にも、こうした「情緒的特性の価値の確認」という意味があるのだと理解できる。一般的に「承認欲求」という言葉で呼ばれがちな「ソーシャルメディアでの自慢行為」だが、それは言い換えると、ソーシャルメディアでの反応がなければ、自分の選択した行為が選択に見合う価値を持っていることを確信できないという不安の表れでもある。

ソーシャルメディアがそうした不安を解消するツールになっていることの「面倒さ」については、日々感じている人も多いだろう。だがここにはもうひとつの問題が起きている。つまり、その情緒的価値と、現実の空間がもつ価値のマッチングが保証されていないということだ。なぜならば情緒的価値はあくまでスマホの検索を通じて「発見」されたものであり、しかもそれは、お店の側が提供した情報でないからこそ信頼性をもつのである。たとえそれが、消費者を欺いて自分に都合の良い部分だけを宣伝するのではなく、純粋に来店者のためを思って提供した情報であったとしても、売り手側の情報であるというだけで眉唾ものだとみなされかねない。逆にお店のことをよく知らずとも、情緒的特性の発見や創造に長けた客が発信した情報だけで、その店に情緒的特性があるかのように受け止められるのである。

いわゆる「インスタ映え」批判における「場の空気を乱している」「自分の撮影のことばかりで周囲の迷惑を考えていない」といった物言いが撮影側に通じないのは、その人たちがマナーに鈍感な人だからではない。そもそも、その場所がどういう場所であるかということや、それに価値を感じるための手順が、根本的にその場所とズレてしまっているのだ。その意味を共有できない人たちとの間に生じる齟齬こそが、「インスタ映え」批判の正体であり、それが個々人のマナーではなくインスタ映え消費を生み出すメカニズムそのものに組み込まれている以上、「インスタ映え」批判は、必然的に生じるわけだ。

4.スマホレスな消費の可能性

以上、「インスタ映え」消費の流行と、それが必然的に批判を生むメカニズムについて解説してきた。まとめると、多孔化した現実が生み出される状況の中で、消費にあたって情緒的特性を事前に探索可能なスマホ経由の消費では、消費者が想定した情緒的特性がソーシャルメディアを介して確認される一方、現実空間の方の特性が上書きされたり、それらと齟齬をきたしたりする可能性に晒されている。すなわち、「スマホ消費」をリアル空間の消費に結びつけていく限り、そこで付加価値化されるのは、場所と切り離された「ソーシャルメディアが生み出した情緒的特性」でしかないのだ。

この問題をどのように回避すべきか。ソーシャルメディア経由の情報探索がリアル空間との齟齬をきたす可能性をもつからといって、ソーシャルメディアで宣伝しないというのでは、消費の広がりをもつことができない。ポイントは、情報探索の段階で得られた情緒的特性が、リアルの消費の場と結びつくような仕掛け、すなわち、消費の場の価値を「スマホレス」なものにするということだ。

いまのところその可能性として僕が考えているのは、次のようなものだ。まず、その場の消費行動からスマホを取り上げてしまうか、スマホを用いないことが価値であるような体験型の消費。具体的にはバーチャル・リアリティを利用したゲーム施設だとか、ダイアログ・イン・ザ・ダークのようなものだ。VRに関しては昨年から何度か体験し、後者も今年開催されたダイアログ・イン・サイレンスに参加してきたのだけど、なるほどスマホレスな体感消費とはこういうものかと思わされるところが多かった。

参加中にスマホが利用できないことによって、これらの消費では事前に探索した情緒的特性の価値を確信するために自分自身が主体的に楽しまないといけないという特徴があると感じた。そこで何が起きたのか、どういう体験をしたのかということを冗長に語ることのできるタイプでなければ「すごかった!」「不思議な体験だった!」という言い方でしか、その感想を語ることができないだろう。だが他方で、そうした「素人の言葉」こそ、新たな情緒的特性の種としてソーシャルメディアに拡散するのであり、またその真の価値は「やってみないと分からない」からこそ、人を惹きつけるものになる。

もうひとつの可能性は、スマホの利用は禁じられていないものの、スマホでは十分に伝わらないような魅力を提供することで、「素人の言葉」という情緒的特性を引き出すものである。具体的には、撮影が許可されているライブや音楽イベント、参加型上映会、舞台やデジタルアートのパフォーマンスがそれに当たる。こうした場の演出の高度化は様々なところで進んでいて、もはや客が黙って席に座って演者のパフォーマンスを楽しむというものではなくなりつつある。これらの消費においても、価値の中心は「やってみないと分からない」「ハマってからが本番」なのであり、その点でスマホが禁止されていないとしてもスマホレスな消費だといい得る。

こうした可能性が、どこまで広がりを見せるのかは現時点では不明だ。デジタルマーケティングの世界では、おそらくインスタ映えを軸に据えたインフルエンサー・マーケティングがまだ最先端だと思われていて、かつ実務を担当する人びとにとっては、その波が崩れたあとでも、誰かが用意した別の船に乗り換えればいいくらいの認識なのかもしれない。僕は研究者だから、現状について常に疑問があるし、疑問を解消するためには現時点で存在しない可能性について考えなければいけないと思っている。まだまだ「次の可能性」についていろんなアイディアがあるのだけれど、ひとまず「スマホな消費・スマホレス消費」についてはこんな感じということで。

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