雑記20180116

人を育てるうえで「ハリウッド/シリコンバレーモデル」と「ぬるま湯モデル」(いい名前が思いつかない)の違いを意識するのはとても大事。ハリウッドやシリコンバレーは世界最高水準の人材が集まる場所ではあるけれど、その背景には大量の夢破れてそこを去る人々がいることは忘れられがちだ。このモデルの特徴は、0.1%の成功者を生むためなら、残りの人間がどうなっても構わないと考える点にある。育成というよりはサバイバルに近い。

他方でぬるま湯モデルでは、サバイバルが必要とされない。何もしなくても一定の成果や生活が保証されており、それゆえに自由なアイディアやクリエイティビティの発露が可能になっている。ハリウッドモデルでは生き残れないような人々でも、その環境が生んだ寛容な空気の中で結びつき、創発的コラボレーションを行うこともある。

両者のモデルの違いは、そこで成長しようとする人への関わり方の違いにつながる。前者であれば、意欲のある人にチャンスは与えるものの、一回で成果が出なければ支援は打ち切られる。その意味で成果に対して貪欲だし、プロジェクトの進め方も抑圧的になる。他方で後者は、そうした抑圧がない一方で、特段の支援もない。だから自由ではあるけれど、サバイバルとは別の意味で、成果から取り残される吹き溜まり組が発生する。

勤め先に限らず、大学という場所は伝統的に後者のモデルで運営されてきた。大卒というだけで将来が一定程度保証されており、それゆえに「小さくまとまりたくない」という人たちには、それを拒否して好きなことをやる自由もあった。浪人や留年が人生経験としてポジティブに評価されていた節すらある。ベテランの先生方にも、その理想こそが大学のあるべき姿であり、学生への過干渉はむしろ彼らの才能の芽を摘むと考える人は多い。

価値観としては共感するのだけど、やはりそのモデルだけでは立ち行かないというのが僕の現状に対する判断だ。家が金持ちとかそういうケースを除けば、大学に入れたというだけで将来が安泰で、自由を謳歌できるなどということはないし、社会全体の評価軸もサバイバル的なものを受け入れるようになっている。現在の大学でぬるま湯モデルによる評価を維持することは、ある意味で「吹き溜まり」を誘発し、結果的に受験対象として不適格という烙印を押されることになろう。

ではシリコンバレー的なサバイバルがよいのかというと、そうとも言い切れない。シリコンバレーが機能するのは、99.9%が脱落しても、次の才能が世界から後から後からやってくるからだ。そのような人気を得ていない場所でサバイバルさせたところで、単に才能が先細って衰退するかよそに逃げられるだけだろう。現在の大学の研究環境が、そもそもそうなってしまっている。

ゼミでやろうとしているのは、その点で、ぬるま湯ともサバイバルとも異なる新たなモデルを模索することでもある。だからこの時期、1年間を振り返って教え子たちの成長について考えるのは、自分にとって最大のフィードバックであり、改善点を探り、理想的なモデルへと近づける、大事な機会なのだ。まだまだ、完成には程遠いのだけれど、少なくとも悪化はしていないと信じたいところ。

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